我が家の高校生の卒業式。保証人に一度も迷惑をかけなかったのが、なによりだ。




1998ソスN3ソスソス3ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

March 0331998

 釘を打つ日陰の音の雛祭

                           北野平八

者は雛の部屋にいるわけではない。麗かな春の日。そういえば「今日は雛祭だったな」と心なごむ思いの耳に、日陰のほうから誰かの釘を打つ音が聞こえてきた。雛祭とは関わりのない生活の音だ。この対比が絶妙である。明と暗というほどに鮮明な対比ではなく、やや焦点をずらすところが、平八句の真骨頂だ。事物や現象をややずらして相対化するとき、そこに浮き上がってくるのは、人が人として生きている様態のやるせなさや、いとおしさだろう。言うならば、たとえばテレビ的表現のように一点に集中しては捉えられない人生の機微を、平八の「やや」がきちんとすくいあげている。先生であった桂信子は「ややの平八」と評していたころもあるそうだが、「しらぎくにひるの疲れのやや見ゆる」など、「やや句」の多い人だったという。「やや」と口ごもり、どうしてもはっきりと物を言うわけにはまいらないというところで、北野平八は天性の詩人だったと思う。多くの人にとっての今日の雛祭も、多くこのようなさりげない情感のなかにあるのだろう。作者は1986年文化の日に肺癌のため死去。享年六十七歳であった。『北野平八句集』(1987)所収。(清水哲男)


March 0231998

 我も夢か巨勢の春野に腹這へば

                           河原枇杷男

養がないとは哀しいもので、句の「巨勢」を、はじめは作者の造語だと思い、春の野の圧倒的な生命感を暗示した言葉だと思っていた。結果的にはそのように読んでもさして間違いではなかったのだが、念のために辞書を引いてみたところ、「巨勢」は「こせ」と読み、現在の奈良県御所市古瀬あたりの古い地名だとあった。古代大和の豪族であった巨勢氏に由来するらしい。いずれにしても、作者は圧倒的な生命力もまた夢に終ることを、我と我が身で実感している。古代に君臨した豪族の存在が夢のようであったからには、私自身もまた夢のようなそれなのだろうと達観しかかって(!)いる。この句に接してすぐに思いだしたのは、啄木の「不来方ののお城のあとの草に臥て/空に吸はれし/十五のこころ」だった。枇杷男の句は六十歳を過ぎてのそれで、同じように「野に腹這」っても「草に臥て」も、ずいぶんと心持ちが違うところが切ない。栄枯盛衰は権力の常だと歴史は教えている。が、権力にかかわらぬ個々人は、歴史にしめくくってもらうわけにもいかないから、このように自分自身でしめくくりにかかったりするのだろう。『河原枇杷男句集』(1997)所収。(清水哲男)


March 0131998

 沖に降る小雨に入るや春の雁

                           黒柳召波

本農一・尾形仂編『近世四季の秀句』(角川書店)の「春雨」の項で、国文学者の日野龍夫がいきなり「春雨は、すっかり情趣が固定してしまって、陳腐とはいうもおろかな季語である」と書いている。「月様、雨が。春雨じゃ、濡れてゆこう。駕篭でゆくのはお吉じゃないか、下田みなとの春の雨」では、なるほど現代的情趣の入り込む余地はない。そこへいくと近世の俳人たちは「いとも素直に春雨の風情を享受した」ので、情緒纏綿(てんめん)たる名句を数多く残したと日野は書き、この句が召波の先生であった蕪村の「春雨や小磯の小貝ぬるるほど」などとともに、例証としてあげられている。蕪村の句も見事なものだが、召波句も絵のように美しい。同時代の人ならばうっとりと、この情景に心をゆだねることができただろう。しかし、こののびやかさはやはり日野の言うように、残念ながら現代のものではない。だから、この句を私たちが味わうためには、どこかで無理に自分の感性を殺してかからねばならぬ、とも言える。これはいつの時代にも付帯する後世の人間の悪条件ではあるが、その「悪」の比重が極端に加重されてきたのが「現代」である。(清水哲男)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます