春風駘蕩を感じたいところだが、現実は常にトゲトゲしい。真の隠居をしてみたや。




1998ソスN2ソスソス27ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

February 2721998

 根分して菊に拙き木札かな

                           小林一茶

ーデニング流行の折りから、ひところは死んでいたにも等しい「根分け」という言葉も、徐々に具体的に復活してきた。菊や花菖蒲などの多年草を増やすには、春先、古株の間から萌え出た芽を一本ずつ親根から離して植えかえる必要がある。これを「根分け」という(菊の場合は「菊根分」と、俳句季語では特別扱いだ)。一茶は四国旅行の途次、根分けされた菊に備忘的につけられた木札を見かけて、にっこりとしている。あまりにも拙劣な文字を判読しかねたのかもしれないが、その拙劣さに、逆に根分けした人の朴訥さと几帳面さとを読み取って、とても暖かい気分にさせられている……。現代のように、誰もが文字を書けた時代ではない。読み書きができるというだけで一目も二目も置かれた時代だから、たとえ小さな木札の文字でも、注目を集めるのが自然の成り行きであった。そのことを念頭に置いて、あらためてこの句を読み返してみると、一茶の目のつけどころの自然さと、その自然さを無理なく作品化できる才能とが納得されるだろう。(清水哲男)


February 2621998

 鮒よ鮒あといく春の出会いだろう

                           つぶやく堂やんま

りは、鮒(ふな)にはじまり鮒に終る。そういうことを言う人がいる。小学生の頃、どういうわけか鮒釣りが好きだった。生来短気なくせに、鮒を釣るときだけは、じいっと水面のウキを眺めて飽きなかった。釣ったバケツの中の鮒は、母が七輪で焼いて残らず晩ご飯のおかずになった。……と書くだけで、そのときの味がよみがえってくる。子供だったから、作者のような心境にはならなかったけれど、季節のめぐりとともに遊んだり働いたりする人は、誰しもがこうした感慨を抱いて生きていく。いまにして、そのことが痛切にわかってきたような気がする。作者は自分の作品を俳句ではなく「つぶやき」だと言う。作品様式を「つぶやっ句」と称している。いうところの「俳句」にまでは結晶させないゾという意志の強さに「つぶやっ句」独自の考え方と心意気と美学とがあって、私は好きだ。しかし、この「句」もまた俳句からすると立派な発句にはちがいなく、たぶん俳句は「つぶやっ句」と共存して、今後の「いく春」をも生きつづけていくことになるのだろう。考えてみれば、ほとんどの俳句は「つぶやき」にはじまっているのだからである。『つぶやっ句観音堂』(1995)所収。(清水哲男)


February 2521998

 白梅に昔むかしの月夜かな

                           森 澄雄

月夜ではないだろう。春とはいえ、梅の頃の夜はまだ寒いので、月は冬のそれのように冴えかえっている。冷たい月光を浴びて、梅もまたいよいよ白々と冴えている。夜は人工のものを隠してくれるから、さながら「昔むかしの」月夜のようだ。古人も、いまの自分と同じ気持ちで梅を見たにちがいない、作者はいつしか、古人の心持ちのなかに溶けこんでいく……。そんな自分を感じている。それにしても「昔むかし」とは面白い言葉だ。「荒城の月」のように「昔の光」と言ってしまうと「昔」の時代が特定される(この場合はそれでよいわけだ)が、「昔むかし」とやると時代のありかは芒洋としてくる。ご存じのように英語にも同様の表現があり、なぜこういう言い方が必要かということについては、落語の『桃太郎』でこましゃくれたガキが無学の父親にきちんと説明している。もっとも、桃太郎が活躍した時代を必死に突き止めて見事に特定した学者もいるというから、こうなるとどちらが落語の登場人物なのかわからなくなってくる。『四遠』(1986)所収。(清水哲男)




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