蟄」隱槭′譏・繧√¥縺ョ句

February 2221998

 うららかや涌き立つ鐘のするが台

                           入江亮太郎

駿河台(東京・神田)の鐘といえば、昔からニコライ堂のそれと決まっている。にぎやかな音でうるさいほどだが、涌(わ)き立つ感じは希望の春に似合っている。作者の母の生地でもあり、この鐘の音には特別な思い入れがあっての一句だろう。「ニコライの鐘や春めく甲賀丁」とも詠んでいる。戦後の流行歌に「青い空さへ小さな谷間……」という歌い出しの「ニコライの鐘」というヒット曲があって、この鐘が全国的に有名だった時代もあった。「うるさいほど」と書いたが、これは私の実感で、受験浪人時代に鐘のすぐそばの駿台予備校(現在とは違う場所にあった)に通っていたことがあり、鳴りはじめると講師の声が聞こえなかった思い出がある。したがって、間違ってもこの句のような心境ではなかったのだが、今となってはやはり懐しい音になった。ひところ騒音扱いされて鳴らさなくなったと新聞で読んだ記憶があるが、今はどうなのだろうか。駿河台界隈には、めったに行かなくなってしまった。『入江亮太郎・小裕句集』(1997)所収。(清水哲男)


February 0422006

 じろ飴をたぐりからめて春めく日

                           菅原美沙緒

語は「春めく」。立春を過ぎても、まだまだ寒い日がつづく。ただそんななかにも,目にする風物や肌に触れる大気に、だんだん春の気配が感じられるようになってくる。昔はこの季語に触れると、誰もが心のなごむ思いがしたものだが、近年では花粉症の方が爆発的に増えてきたので、そうもいかなくなってきた。この季語の心的方向については、そろそろ変更する必要がありそうだ。掲句は、昔のままの「春めく」の感覚でよい。いきなり「じろ飴」を持ってきたところで、句は半ば以上成功を約束されたも同然だ。一瞬意外な感じがするが、この句を「じろ飴」のように「たぐりからめて」読んでみると、なるほど句の空気が少しずつ春めいてくる。「じろ飴」は、金沢・俵屋の江戸時代からつづく名物飴だ。「じろ」は同地方の方言で「汁」を意味するらしいが、要するに砂糖を使用せず米と麦芽だけで作った水飴である。私も子供のころ、よく水飴を箸に巻きつけて舐めたけれど、俵屋のものではなかっただろう。といって頻繁に舐めた覚えはないから、風邪薬代わりだったような気もする。もう何十年も口にしたことはないけれど、味や舌の感触はかなりよく覚えている。子供にはいささか甘味不足で物足りなく思えたが、まあいわゆる上品な味だったというわけだ。最近、ときどき発作的に甘いものがほしくなる。そのうちに、一度試してみたい。『現代俳句歳時記・冬』(2004・学習研究社)所載。(清水哲男)


February 1722006

 春めきて沢庵うまき膳に坐す

                           前島長路

語は「春めく」。春めいてきたことへの喜びを、まるで鷲づかみにしたような詠みぶりが好もしい。骨太い句だ。ごく日常的な朝餉の膳だろう。うまい「沢庵(たくあん)」と熱々の味噌汁と、そして炊きたてのご飯とおかずが一品ほど……。もうこれくらいで十分に満足なのは、やはり春めいてきた陽気のおかげなのであり、そしてなによりも作者が健康であることの証左でもある。どこにもそんなことは書いてないけれど、この句にはこれから表に出て行く張り切った気持ちも滲んでいる。遊びに行くわけじゃない。いつものようにいつもの仕事のために出かけるだけなのだが、その気分が春めいてきたことによって高められているわけだ。「春めく」の句には、たとえば飯田蛇笏の「春めきてものの果てなる空の色」のように繊細で抽象的な佳句が多いなかで、掲句のごとくずばりと具象性を貫いた句は案外に珍しいし、読後すぐに腑に落ちて気持ちが良い。うまい沢庵といえば、子供の頃のは自家製だったし、他にうまいものの味を知らなかったせいもあるのだろうが、やはりうまかった。食事がすんでから、一切れ齧ってお茶を飲んだときのあの味を、もう一度味わってみたいとは思うけれど、最近はうまい沢庵がないのが残念だ。『俳諧歳時記・春』(1968・新潮文庫)所載。(清水哲男)


February 2122007

 寄席の木戸あいて春めく日なりけり

                           入船亭扇橋

席の客席は映画館や劇場とちがって真っ暗ではない。薄明かりのなかで、白昼から三味線が鳴り、鉦太鼓が響き、亭内には赤い提灯がずらり。そのうえ笑いが絶えない。こんなスペースは他にはない。寒さがゆるんでくる時季になれば、亭内の空気も一層やわらいでくる。客の身なりも然り。以前ならば、「らっしゃいー」という木戸番の爺さんの威勢のいい声が、雰囲気を盛りあげていた。木戸をくぐれば、笑いもどこやら春めいてやわらぎを増し、高座の演し物も春にふさわしい噺がならぶ。いつも楽屋入りしている落語家が、木戸をあけて出入りする客にふと春めいた気配を感じとったのだろう。「さて、今日あたりは『長屋の花見』でも伺うか・・・・」とか。高座にも客席にも、ぬくい空気がふくらみを広がってくる結構な時季である。楽屋でも春めいた洒落が立ったり座ったりしているにちがいない。掲出句はそうした“春”をさらりと詠んで、屈託ない。九代目扇橋は名人桂三木助(三代目)に入門した。句歴は古く、すでに小学校6年生の頃に運座に参加して、商品に団扇や味噌をもらったりしていた。十代で「馬酔木」に投句。秋桜子編『季語集』には「溝蕎麦の花淡し吾が立つ影も」「山吹に少女の雨具透きとほる」の二句が収載されている。俳号は光石。現在、東京やなぎ句会の宗匠。俳句については「喜び、悲しみ、笑い、叫び、怒り、憎しみ、たわむれ――すべてをすっぽり包み込んでしまう俳句は、本当に偉大な風呂敷である」と書く。今も元気でまめに寄席に出演し、飄々とした枯淡の味わいが、独自の滑稽味をにじませている。『扇橋歳時記』(1990)所収。(八木忠栄)


March 2632008

 春の風邪声を飾りてゐるやうな

                           高橋順子

うまでもなく「風邪」は冬の季語であり、風邪にまつわる発熱、咳、声、のど、いずれも色気ないことおびただしい。けれども「春の風邪」となると、様相はがらりと一変する。咳もさることながら、鼻にかかった風邪声には(特に女性ならば)どことなく色気がにじんでくるというもの。「春」という言葉のもつ魔力を感じないわけにはいかない。寒い冬に堪えて待ちに待った暖かい春を迎える日本人の思いには、また格別なものがある。秋でも冬でもない、やわらかくてどこかしら頼りない「春の風邪」だからこそ、「声を飾」ることもできるのであろう。声を台無しにしたり壊したりしているのではなく、「飾りて」と美しくとらえて見せたところがポイント。しかも強引に断定してしまうのではなく、「ゐるやうな」とソフトにしめくくって余韻を残した。そこに一段とさりげない色気が加わった。順子は泣魚の俳号をもつ俳句のベテランであり、すでに『連句のたのしみ』(1997)という好著もある。「連れ合い」の車谷長吉と二人だけの《駄木句会》を開いているが、掲出句はその席で作ったもの。この句に対し、長吉は即座に「うまいなあ。○だな。なるほどなあ、これ、うまいわ」と手ばなしで感心している。順子は「実感なんですよ、鼻声の」と応じている。なるほど、いくら「春の風邪」でも、男では「声を飾りて」というわけにはいかない。同じ席で「春めくや社のわきの藁人形」という、長吉を牽制したような句も作られている。『けったいな連れ合い』(2001)所収。(八木忠栄)


February 1022009

 たちまちに車内に桜餅匂ふ

                           大島英昭

気に入りの近所の和菓子屋さんでは、立春をもって桜餅が並ぶようになる。桜の季節はまだ先だが、香りから春を思い出し、身体が素直に喜ぶことを実感できる瞬間である。桜の葉のあの独特の芳香は、殺菌効果も伴う「クマリン」という成分だそうだ。クマリンは木に付いているときには発することはなく、落葉となったときから生まれるという。そしてこれは、自樹が落葉する範囲に芽吹きを許さないテリトリー遵守が真の目的だというから驚く。まず花しか咲かないこと、落ちてより香る葉、そして60年ほどの寿命。桜が持つ数々の不思議は、どれも確固たる基準に裏打ちされているように思われる。桜の身内にしか理解できない、唯一の桜となるための美の基準である。謎めいていればいるほど、人間は桜という生きものに惑わされ、魅了されてやまないのだろう。などと満開の桜に思いを馳せつつ、桜餅を二つたいらげたのだった。〈日暮れより春めいてゆく家路かな〉〈桜蕊降るやをさなの砂の城〉『ゐのこづち』(2008)所収。(土肥あき子)


January 2812011

 春めくやわだちのなかの深轍

                           鷹羽狩行

の土に幾筋も刻まれた轍のなかに浅い轍と深い轍がある。春の土のやわらかさという季節の本意と、轍という非情緒的な物象が一句の中で調和する。また、凝視の眼差しも感じられる。轍という言葉が示す方向性に目をやって人生的なものへの暗喩に導く鑑賞もありえようが、僕はそうは取らない。あくまで轍は轍。「もの」そのもの。『十六夜』(2010)所収。(今井 聖)


April 1742011

 春めくを図形で言へば楕円かな

                           平川 尭

中を歩いていると、見ているだけで胸の奥まですっと気持ち良くなる形があります。かというと、どうもおさまりがつかなくて落ち着かない形もあります。目の前にそびえているビルの形だったり、遠くに浮かんでいる雲の形だったり、レストランの看板の形だったり、何の理由もないのに、なぜか心に影響を与える形が、たしかにあります。でもそれは、単に「ちょっと気になる」というだけのものです。でも、そのちょっと気になるものに、一日中心がとらわれてしまうことだって、あるわけです。今日の句、春めくを楕円と感じるのは、個人的な感覚と言うよりも、だれでもが持つ共通の感じ方なのかもしれません。楕円の、長い方のひろがりに、ホッとしたものが入っていると感じられるからです。『新日本大歳時記 春』(2000・講談社)所載。(松下育男)


February 0322014

 わが里の春めく言葉たあくらたあ

                           矢島渚男

あ、わからない。「たあくらたあ」とは、何だろう。作者が在住する信州の方言であることは句から知れるが、発音も意味もまったくわからない。そこをむりやり解読して、私は最初「食った食った、たらふく食った」の意味にとってしまった。「くらた」を「喰らった」と読んだのである。ところが調べてみると、大間違い。柳田国男に「たくらた考」なる一文があり、「田藏田」とも書いて、「麝香(ジャコウ)といふ鹿と形のよく似た獣だったといふ(中略)田藏田には香りがないので捕っても捨ててしまふ。だから無益に事件のまん中に出て来て殺されてしまふ者」とある。信州では「馬鹿者」とか 「オッチョコチョイ」「ショウガネエヤツ」「ノンキモノ」などを、いささかの愛情を込めて「コノ、たあくらたあ」などと言うそうだ。「たらふく食った」などと頓珍漢な解釈をした私のほうが、それこそ「たあくらたあ」だったというわけである。句の「春めく言葉」というのは、「たあくらたあ」と言う相手にこちらが愛情を感じている言葉だからだ。その暖かさを良しとして、「春めく」と言っている。そしてこの句からわかるのは、そうした句意だけのことではない。いちばん好感が持てるのは、この句を詠んだときの作者がきわめて上機嫌なことがうかがえる点である。春は、もうそこまで来ている。「梟」(2011年3月号)所載。(清水哲男)




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