歩けば歩くほどキャラクターが育つという万歩計。歩かないわけにはいかなくなる。




1998ソスN2ソスソス19ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

February 1921998

 たたずみてやがてかがみぬ水草生ふ

                           木下夕爾

りかかった小川か池か、ふとのぞくと今年ももう水草が生えてきている。しばらくたたずんで見ていたが、美しさに魅かれていつしかかがみこんで眺めることになった。いかにも早春らしい明るい句だ。私の田園生活は子供のときだけだったから、まさかかがみこむようなことはなかったが、明るい水面を通して水草が揺れている様子を見るのは好きだった。唱歌の「ハルノオガワハサラサラナガル(戦後になって「サラサラいくよ」に改訂)」はフィクションではなく、実感の世界であった。岸辺では猫柳のつぼみがふくらみかけ、幼さの残る青い草たちが風に揺れていた。この季節が訪れると、農家も、そして農家の子もそろそろ忙しくなってくるのだが、それでも本格的な春がそこまで来ている気分は格別だった。夕爾は早稲田に学んだが、家業の薬局を継いで福山市に居住して以来、生涯故郷を離れることはなかった。『遠雷』(1959)所収。(清水哲男)


February 1821998

 木々のみな気高き春の林かな

                           塩谷康子

語にもいろいろある。句の「気高き」などもその一つだろう。気高い山といえば、昔は富士山が定番だったけれど、いまでは富士山を形容して「気高い」とはほとんど言わなくなった。この山の場合は権力がいいように「気高く」扱ってきた歴史があるから(富士山のせいじゃない)、べつに気高いと思わなくても構わないのだが、しかし、この言葉が象徴する「品格」一般がないがしろにされている事態には承服しかねる。「上品」「下品」も、いまや死語に近くなっているのではないか。言葉の生き死にには、当然歴史的社会的背景があり、経済優先の世の中では「品位」などなくたって構わないし、日本版ビッグバン(変な言葉だ)が進行していけば、ますます「下品」が下品と承知しないではびこるのだろう。一方では、しかし作者のように、木々の「気高さ」を素直に実感として感じている人が存在していることも確かなわけで、経済の暴走族どもにいいように言葉を引き倒されるのはたまらない。そのような無惨を許さないためにも、たとえば俳句は「気高さ」をもっと詠んで欲しいと思った。『素足』(1997)所収。(清水哲男)


February 1721998

 ひた急ぐ犬に会ひけり木の芽道

                           中村草田男

吹きはじめた木々の道に早い春を楽しみながら歩いていると、向こうから犬がやってきた。なにやら真剣な顔つきで、作者には目もくれずに急ぎ足のまますれちがって行ってしまった。それだけのことだが、余程の事情がありそうな犬だと思わせているところがユニークで面白い。そういえば、昔は犬が単独で歩いていた。大きな犬がやってくると、たじろいだりしたものだ。目を合わせないようにして、平気な振りをしてすれちがうのがコツで、決して元来た道を走って逃げたりしてはいけない。そう、親たちから教えられていた。いまの犬はみな飼い主と一緒だから、怖そうな犬でも飼い主の制御力を信頼して平気ですれちがえる。犬なりの事情や感情を読み取らなくてもよくなってしまった。安心になった。それにきっと犬の側にも、いまでは「ひた急ぐ」事情など発生しなくなってしまっているのだろう。完全に飼育されきってしまわないと、犬も生きられない時代になったということだろう。やれやれ……。『中村草田男句集』(1952)所収。(清水哲男)




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