アイスダンスを見ていて、世の中には男と女しかいないのだなと、妙に感動した。




1998ソスN2ソスソス17ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

February 1721998

 ひた急ぐ犬に会ひけり木の芽道

                           中村草田男

吹きはじめた木々の道に早い春を楽しみながら歩いていると、向こうから犬がやってきた。なにやら真剣な顔つきで、作者には目もくれずに急ぎ足のまますれちがって行ってしまった。それだけのことだが、余程の事情がありそうな犬だと思わせているところがユニークで面白い。そういえば、昔は犬が単独で歩いていた。大きな犬がやってくると、たじろいだりしたものだ。目を合わせないようにして、平気な振りをしてすれちがうのがコツで、決して元来た道を走って逃げたりしてはいけない。そう、親たちから教えられていた。いまの犬はみな飼い主と一緒だから、怖そうな犬でも飼い主の制御力を信頼して平気ですれちがえる。犬なりの事情や感情を読み取らなくてもよくなってしまった。安心になった。それにきっと犬の側にも、いまでは「ひた急ぐ」事情など発生しなくなってしまっているのだろう。完全に飼育されきってしまわないと、犬も生きられない時代になったということだろう。やれやれ……。『中村草田男句集』(1952)所収。(清水哲男)


February 1621998

 見にもどる雛の売場の雛の顔

                           岡田史乃

ういうことって、時々ありますね。買い求めたいというのではなく、もう一度よく見て、記憶にとどめておきたい衝動にかられることが……。このように、誰もが「思い当たる」世界を描くのは、俳句ならではの表現法でしょう。自由詩は多く説得する文学ですが、俳句は多くしゃらくさい説得など拒否する文学とも言えるかと思います。現実の事物や現象に取材して、自らの感性を読者の「心当たり」の方向に開いていくのですから、簡単にできることではありません。それこそしゃらくさい個性とやらを、いかに消すか。あるいは、いかに隠すか。誰にでも一応は可能な文学の、もっとも困難なポイントはここでしょう。妙なことを言うようですが、俳人は、その意味でジャーナリスト感覚がないと大成できないような気がします。たとえば正岡子規を「寝たきりジャーナリスト」、富田木歩を「座りっぱなしジャーナリスト」などと考えてみると、それこそ「心当たり」がいろいろと出てきそうです。あと半月ほどで雛祭。娘たちが小さかった頃は、テレビの上に学年雑誌の付録のお雛様を飾っていました。小学館よ、ありがとう。『ぽつぺん』(1998)所収。(清水哲男)


February 1521998

 将来よグリコのおまけ赤い帆の

                           清水哲男

句自註など柄でもないが、六十回目の誕生日に免じてお許しいただきたい。子供の頃、なけなしの小遣いをはたいて、せっせとグリコを買っていた時期がある。告白すれば「おまけ」が欲しかっただけで、飴をなめたいわけではなかった。現代のグリコは知らないが、敗戦直後の本体はそれほど美味ではなかった。後に熱中した「紅梅キャラメル」(こちらの「おまけ」は巨人選手カード)も同様だった。「おまけ」の小箱にはさまざまなセルロイド製の玩具が入っており、取り出す瞬間のゾクゾクする気分がたまらなかった。「なあんだ」とがっかりしたり、「やったあ」と大満足したりと……。それだけのために、全財産(!)をはたいていた。そうした子供の熱中を思うにつけ、どんな子供にも「将来」があるのであり、でも「将来」にはグリコの「おまけ」ほどの保証もないことを思い合わせると、まことに切ない気分になってくる。本物の赤い帆が待ち受けている子供など、皆無に近いのだから。そんな思いから発した句なのであるが、飛躍し過ぎだろうか。……し過ぎでしょうね。なお、この句は筑摩書房『グリコのおまけ』に再録されている。掲載に当たって編集者が必死に「赤い帆」のおまけを探してくれたが、見つからなかった。したがって、句の写真には赤白模様の帆のヨットが使われている。「赤い帆」のおまけは実在しなかったのかもしれない。『匙洗う人』(1991)所収。(清水哲男)




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