嵯峨信之追悼短文を書く。埴谷雄高は追悼文が得意で、頼まれなくても書いていた。




1998ソスN2ソスソス6ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

February 0621998

 倖かひとり鳥貝の寿司食ふは

                           小池一覚

は「しあわせ」。「寿司」は夏の季語だが、この場合は「鳥貝」で春。鳥貝とはまた奇妙な名前だ。味が鶏肉に似ているからだとか、軟体部が小鳥の形に似ているからだとか、命名の根拠には諸説がある。冬から春にかけてが旬だ。作者の好物なのだろう。多少懐に余裕があったので、一人で寿司を食べている。ひさしぶりに幸せな気分だ。食べているうちに、しかし、だんだんとさびしくなってくる。なんだか、家族や職場の同僚をさしおいて、自分一人だけがいい気になっているような気がしてきたのである。軽い自己嫌悪の気分に見舞われている。つまり、こっそりと贅沢をしている自分が嫌になりつつあるというところだろう。先日ラジオで、退役した外交官が「国連の明石さんが遊びにみえて、寿司でもつまもうかということになって……」と、気楽に話していた。この話を聞くまで、私は「寿司をつまむ」という表現をすっかり忘れてしまっていた。「つまむ」には元来の意味である単なる食べ方もあるが、こう寿司が高価になってくると、金持ちの余裕みたいなニュアンスもくっついてくる。私など、「つまみに行こうか」などと言ったことはない。ところが、今でも「つまむ」と日常的に気楽に言える人が、存在するのである。ただし、寿司をちょっと「つまめる」身分の人には、この句の味はわからないだろう。(清水哲男)


February 0521998

 うすらひをゆつくり跨ぎ和菓子店

                           丹沢亜郎

菓子店の前の道に薄氷(うすらひ)がはっている。それをゆっくりと跨いで店に入る。この句の命は「ゆつくり」にある。「ゆつくり」が和菓子店の存在を際立たせている。不思議なもので、洋菓子店には急ぎ足で入っても違和感を感じないが、和菓子店には「ゆつくり」入りたいと思う。句のように薄氷がはっていれば、ばりりと踏んづけたりもしないのである。和菓子独特のつつましやかな雰囲気が、こちらの心に伝染するからだろうか。つつましい人に会うと、こちらまでそんな気分になるように……。三鷹や武蔵野には、けっこう和菓子店が多い。通りすがりにのぞくと、赤や黄の色彩が目立ちはじめた。春である。『盲人シネマ』(1997)所収。(清水哲男)


February 0421998

 部屋に吊した襁褓に灯つき今日立春

                           飴山 實

褓は「きょうほう」と読む。元来は赤子を包む「かいまき」のことを言った。転じて、おむつ(おしめ)。この場合は「おむつ」だろう。いまでは貸しおむつや使い捨てのおむつが普及していて、部屋でたくさんのおむつを干す光景を見かけなくなった。が、昔はこの通りで、部屋中におむつが吊るしてあった。夕暮れになって、その部屋に灯がともされる。いつもと変わらぬ様子ではあるが、今日が立春だと思うと、作者はうっとおしさよりも心にも灯を感じている。言葉だけでも「春」は心を明るくしてくれる。「きょうほう」と「きょう」の語呂合わせも面白い。もう二十年以上も前、ギタリストの荘村清志さんのお宅にうかがったことがある。通された部屋の壁には数本のギター、頭の上にはそれ以上のおむつが吊るしてあった。なんだか、とても「いいな」と思ったことを覚えている。『おりいぶ』(1959)所収。(清水哲男)




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