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February 0221998

 炬燵出て歩いてゆけば嵐山

                           波多野爽波

波は京都に暮らしていたから、そのまんまの句だ。「写生の世界は自由闊達の世界である」と言っていただけあって、闊達の極地ここにありという句境である。名勝嵐山には気の毒だが、ここで嵐山は炬燵並みに扱われている。そういえば、嵐山の姿は炬燵に似ていなくもないなと、この句を読んだ途端に思った。京都という観光地に六年ほど住んだ経験からすれば、嵐山なんぞは陰気で凡なる山という印象である。とくに冬場は人出もないし、嵐山は素顔をさらしてふてくされているようにしか見えない。観光地で観光業とは無縁に暮らしていると、名勝も単なる平凡な風景の一齣でしかないのだ。喧伝されている美しさや名称など、生活の場では意識の外にある。その一齣をとらえて、作者は「ほお、これが嵐山か」と、あらためて言ってはみたものの、それ以上には何も言う気になっていない。闊達とは、深く追及しないでもよいという決意の世界でもある。そこが面白い。『骰子』(1986)所収。(清水哲男)


March 1731998

 目刺焼くラジオが喋る皆ひとごと

                           波多野爽波

のようなラジオマンからすれば、句の中身は「ひとごと」じゃない(笑)。それはともかく、ラジオをつけっぱなしにして目刺しを焼いている作者は、少々ムシの居所が悪いと見た。どうせラジオは「ひとごと」ばかり喋(しゃべ)っているのだから、自分には関係はないのだから、いま大事なのは「ひとごと」じゃない目刺しのほうである。こちらに集中しなければ……。と思いつつも、少しはまたラジオを聞いてしまう。そしてまた「ひとごと」放送に腹を立て、またまた目刺しに集中する。そのうちに、しかし目刺しもラジオも「皆ひとごと」に思えてきてしまう。そんな図だろうか。目刺しは、あれで焼き方が難しい。黒焦げになったり生焼きになったりするから、これはもうしょっちゅう焼いている酒場のおばさんなどにはかなわないのである。ラジオをつけていてもいなくても、うまく焼けないので苛々する。そこで「みんなラジオが悪いのよ」と言いたくもなる作者の気持ちは、わからぬでもない。いや、よくわかる。ところで「ひとごと」は漢字で「他人事」と書く。最近のラジオやテレビでは、これを平気で「たにんごと」と読むアナウンサーやタレントがいるが、あれは何とかならないものか。「ひとごと」ながら、恥ずかしいかぎりである。『鋪道の花』(1956)所収。(清水哲男)


August 2681998

 西日さしそこ動かせぬものばかり

                           波多野爽波

いに納得。よくわかります。晩夏から初秋にかけての西日は、太陽の位置が下がってくることもあって強烈だ。眩しさもさることながら、暑さも暑しで、たまらない。そんなときに気になるのは、置かれている家具類である。カーテンはとっくに変色しているし、タンスや本箱はバリバリに乾いてしまう。毎夏、どうにかしなければと思うのだけれど、いくら思案をしても「そこ動かせぬものばかり」というわけで、結局は思案だけに終わってしまう。ちょっびりと腹立たしくもあり、またちょっびりと笑えてもくる。瑣末な感覚のスケッチにすぎないといえばそれまでだが、こうしたトリビアルな感覚を読者全体に納得させうるところが、この短詩型の特色だと言えよう。というよりも、まずは納得を前提にして作句するというのが、ほとんどの俳人の姿勢である。正岡子規が提唱した「印象明瞭の句」とはそういうものであるし、俳句はまず読者の漠然たる常識に依拠しつつ、その常識をより明確化することで完成する。俳句に遊ぶ現代詩人の多くの作品が駄目なのは、この「常識」をわきまえていないからである。そしてもうひとつその前に、俳句を一段軽く見る「非常識」が大いに災いしている。(清水哲男)


October 02101998

 銀色の釘はさみ抜く林檎箱

                           波多野爽波

前の句。北国から、大きな箱で林檎が送られてきた。縄をほどいた後、一本ずつていねいに釘を抜いていく。「はさみ抜く」は、金槌の片側についているヤットコを使って浮いた釘をはさみ、梃子(てこ)の原理で抜くのである。真新しい釘は、いずれも銀色だ。スパッと抜く度に、目に心地好い。クッション用に詰められた籾殻(もみがら)の間からは、つややかな林檎の肌が見えてくる。何であれ、贈り物のパッケージを開けるのは楽しいことだが、林檎箱のように時間がかかる物は格別である。その楽しさを釘の色に託したところが、新鮮で面白い。往時の家庭では釘は必需品であり、林檎箱から抜いた釘も捨てたりせず、元通りのまっすぐな形に直してから釘箱に保管した。同じ釘は何度も使用されたから、普通の家庭では新品の銀色の釘を使うことなどめったになく、したがって句の林檎箱の新しい釘には、それだけでよい気分がわいてくるというわけだ。そして、もちろん箱も残されて、物入れに使ったりした。高校時代まで、私の机と本箱は林檎箱か蜜柑箱だった。『鋪道の花』(1956)所収。(清水哲男)


December 06121998

 おでん煮えさまざまの顔通りけり

                           波多野爽波

台のおでん屋。あそこは一人で座ると、けっこう所在ないものだ。テレビドラマでも映画でもないのだから、人生の達人みたいな格好の良いおじさんが屋台を引いてくるわけではない。だから、おじさんと人生論などかわすでもない時が過ぎていくだけだ。したがって客としても、そんなおじさんをじろじろ眺めているわけにもいかず、必然的に、目のやり場としては、屋台の周辺を通っていく見知らぬ誰彼の方に定まるということになる。と、まさに句のように「さまざまな顔が通り」すぎていく。それがどうしたということもなく、チクワやハンペンをもそもそと食べ、なぜかアルコールの薄い感じのする酒をすすりながら、「さまざまな顔」をぼんやりと見送っているという次第。句の舞台はわからないが、爽波は京都在住だったので、勝手に見当をつければ出町柳あたりだろうか。出町柳には、私の学生時代に毎晩屋台を引いてくる「おばさん」がいた。安かったのでよく寄ったのだが、彼女は学生と知ると説教をはじめるタイプで、辟易した思い出がある。「悪い女にひっかからないように」というのが、彼女得意の説教のテーマであり、辟易はしていたが、おかげさまで今日まではひっかからないで(多分……)すんでいるようだ。『骰子』(1986)所収。(清水哲男)


January 3111999

 畑あり家ありここら冬の空

                           波多野爽波

ういう句を読むと、俳句の上手下手とは何かと考えさせられてしまう。たぶん、この冬空は曇っていると思われるが、見知った土地の畑のなかに民家が点在している様子を、作者はあらためて見回しているのである。曇り空と判断する根拠は、空が抜けるように青かったとすれば、作者は地上の平凡な光景をあらためて確認するはずがないと、まあ、こんなところにある。このとき、作者は弱冠二十六歳。「ホトトギス」最年少の同人に輝いた年だ。しかし、この句から二十代の若さを嗅ぎ取る読者はいないだろう。どう考えても、中年以降の人の句と読んでしまうはずだ。「ホトトギス」の親分であった高浜虚子は、なかなか隅に置けない(喰えない)ジャーナリストで、新同人の選別にあたっても、このように常識的な意味での若さのない若い人、あるいは他ジャンルでの有名な人(一例は、小説家の吉屋信子)などを突然同人に推挙して、話題作りを忘れなかった。しかも、草田男であろうが秋桜子であろうが、寄せられた句はどんどん勝手に添削して、自分の色に染め上げちゃったのだから、カリスマ性も十分。なお、このような主宰による添削はいまだに俳句の世界では普通に行われていて、詩人にそのことを言うと、たいてい目を丸くする。『鋪道の花』(1956)所収。(清水哲男)


April 1741999

 窓掛の春暁を覆ひ得ず

                           波多野爽波

暁は「しゅんぎょう」と発音するのが普通だが、この句では「はるあかつき」と読ませている。1944年、敗戦一年前の作品だ。作者は二十一歳。さて「窓掛(まどかけ)」とは「カーテン」のことと容易にわかるが、戦争中は英語は敵性用語として使用を禁じられていたので、この表現となった。念のために手元の現代の国語辞典で引いてみると、もはや「窓掛」は載っていない。とっくに死語なのである。作者が目覚めると、カーテンの隙間からほの白い朝の光が洩れ入ってきていた。カーテンがとくに小さいからというのではなく、覆い得ないと感じるほどの春の光の到来を喜んでいる図だ。「春眠暁を覚えず」というが、爽波は早起きだったのか、春暁の句が多い。なかには、戦後に作った「春暁のダイヤモンドでも落ちてをらぬか」という変な句もある。生活苦からの発想だろうか。そういえば、私が小学生のときの学芸会で、貧乏なロバ引きが歌う「どこか百円、落ちちゃいないか」という劇中歌があって、大いに流行したものだ。当時、村祭に親からもらう小遣いは十円と決まっていた。「百円」は憧れだった。あの頃は国民的に、ビッグな「落とし物」を探す雰囲気が蔓延していたのかもしれない。『鋪道の花』(1956)所収。(清水哲男)


May 3151999

 親切な心であればさつき散る

                           波多野爽波

っぱり、わからない。わからないけれど、しかし、なぜか心に残る句だ。俳句には、こういう作品がときたまある。心にひっかかる理由の一つは「親切な心」という詠み出しにあるのではないか。芭蕉以来三百有余年の俳句の歴史のなかで「親切」などという言葉で切り出した句は、他にないのではないか。しかも、何度読んでも、この「親切な心」の持ち主は不明である。でも、つまらない句とは思えない。なんだか、散る「さつき」に似合っている気がしてくるのだ。わからないと言えば、だいたいが「さつき(杜鵑花)」自体もよくわからない花なのであって、私には「さつき」と「つつじ」の違いは、いつまで経ってもこんがらがったままである。この句については、永田耕衣の文章がある。「軽妙だが永遠に重味づくユーモアがある。滑稽といい切った方が俳句精神を顕彰するであろう活機に富む。活機といってもどこまでも控え目で出さばらぬばかりか、何のテライもない。いわば嵩ばらぬリズムの日常性がいっぱいだ。軽味も重味もヘッタクレもない。融通無碍、イナそれさえもない日常茶飯の情動だろう」。うーむ、わかるようで、わからない。もとより俳句は、わからなければいけない文学ではないのであるが……。『湯呑』(1981)所収。(清水哲男)


December 06121999

 炬燵にて帽子あれこれ被りみる

                           波多野爽波

燵(こたつ)に膝を入れて、あれこれと帽子をかぶってみている。それだけの、そのまんま句だ。「それがどうしたの」と言いたいところだが、なんだか面白いなと、一方では思ってしまう。面白いと思うのは、私たちの日常茶飯の行為には、句のように、他人から見るとほとんど「無意味」に見えるそれに近いことが多いからだろう。すなわち、私たちは「意味」のために生きているわけではないということだ。句は、暗にそういうことを言っている。そして、このことをちゃんと素朴に表現できる文芸ジャンルが俳句にしかないことに気づくとき、私たちは愕然とする。短歌でもこのようには書けないし、ましてや現代詩ともなれば無理な相談である。いや、本当はどんなジャンルでも、書いて書けないことはないのだけれど、受け取る読者が戸惑ってしまうということが起きる。同じことを書いても、俳句だと「事実」と受け取れるのだが、他のジャンルだとそうは受け取らないという「暗黙の常識」があるからだ。俳句についてのこの「常識」は子規と虚子が広めたようなものだが、いまや偉大な功績だと思わざるを得ない。爽波の句はことごとく、その偉大に乗っかっている。そこがまた、私は偉いと思う。『一筆』(1990)所収。(清水哲男)


January 1912000

 強運の女と言はれ茎漬くる

                           波多野爽波

語は「茎漬(くきづけ)」で冬。大根や蕪の茎や葉を樽に入れ、塩を加えて漬けるだけの簡単な漬物だ。食卓に上がると、その酸味がいっそうの食欲をそそる。じわりとした可笑しみのある句。主婦が茎を漬けているにすぎない写生句だが、わざわざ主婦を「強運の女」としたところが、爽波一流の物言いだ。つまり、わざわざ「強運の女」を持ち出すこともないのに、あえて言ってしまう。そうすると、平凡な場面にパッと光が差す。日常が面白く見える。いつもこんなふうに日常を見ることができたら、さぞや楽しいでしょうね。そして重要なのは、作者が「強運の女」を揶揄しているのでもなければ皮肉を言っているのでもない点だ。ここには、そんな底意地の悪さなど微塵もない。むしろ、たいした「強運」にも恵まれていない女に、「それでいいのさ」と微笑している。爽波は「写生の世界は自由闊達の世界である」と書いているが、その「自由闊達」は決して下品に落ちることがなかった。ここが凄いところ。余人には、なかなか真似のできない句境である。花神コレクション『波多野爽波』(1992)所収。(清水哲男)


March 0932000

 春宵や食事のあとの消化剤

                           波多野爽波

つかくの春宵なるに、色気なきこと甚だしき振るまいなり。されど、かくまでの色気なき振るまいを材に、かくまでに妙な色気を点じ得たる爽波は、さながらに達人とも名人とも言うべけんや。なあんて、擬古文(?!)は難しいものですね。春宵の少しぼおっとしたような感覚が、よく伝わってきます。よほど、胃の弱い人だったのでしょうか。胃弱の文学者といえば、有名なのは漱石でしょう。しきりにタカジヤスターゼ(高峰譲吉がコウジカビから創製した酵素剤の商品名)を飲んでいた様子が、『吾輩は猫である』の苦沙弥先生の描写にうかがわれます。「彼は胃弱で皮膚の色が淡黄色を帯びて弾力のない不活発な徴候をあらわしている。そのくせに大飯を食う。大飯を食った後でタカジヤスターゼを飲む。飲んだ後で書物をひろげる。二、三ページ読むと眠くなる。涎を本の上へ垂らす。これが彼の毎夜繰り返す日課である。……」。先生の胃弱は終章にいたるまで言及されており、よほど漱石がこの持病に苦しめられていたことがわかります。ここでもう一度掲句に返ってみると、味わいはずいぶんと変わったものに感じられますね。爽波と漱石とは、もちろん何の関係もありません。春宵の過ごし方といっても、当たり前ながら人さまざまで、誰もがうっとりとしているわけではないのだと、作者はいささか不機嫌なのでしょう。『鋪道の花』(1956)所収。(清水哲男)


June 2162000

 紫陽花に吾が下り立てば部屋は空ら

                           波多野爽波

っはっは、そりゃそうだ。そういう理屈だ。……と読んで、さて、このあまりにも当たり前な世界のどこに魅力を感じるのかと、さっきから句を反芻している。咲いた紫陽花をよく見ようと、作者は庭に下り立った。私だったら、意識はたぶんそのまま紫陽花に集中するだろうが、爽波は違う。集中する前に、ふっと後ろが気になっている。すかさず、その気持ちを詠んだというわけだ。梅雨の晴れ間だろう。明るい庭から部屋を振り向いたとしたら、そこは暗くて湿っぽい「空ら」の空間だ。この対比を考えると、自分がこの世からいなくなったときの「空ら」の部屋そのものとして浮き上がってくるようである。庭に下りても、この世からおさらばしても、部屋はそのがらんどう性において、まったく変わりはない。掲句はそのことを強調しているわけでもないし、暗示すらしていないのだが、しかし、この「空ら」にはそのあたりまで読者を連れていく力がある。力の源にあるのは、結局のところ「俳句という様式」だろうと思う。俳句として読むから、読者は「はっはっは」ではすまなくなるのだ。『鋪道の花』(1956)所収。(清水哲男)


July 1372000

 藺ざぶとん難しき字は拡大し

                           波多野爽波

は「い」と読み、「藺ざぶとん」は藺草(いぐさ)で織った夏用の座布団のこと。よく見かける座布団で、四角いものも丸いものもある。なるほど「藺」という字は難しい。何気なく尻に敷いている「藺ざぶとん」だが、ふと「藺」というややこしい漢字が気になったので、調べてみたのだろう。でも、辞書の文字が小さくて、よく見えない。早速、天眼鏡で拡大してみて、ははあんとうなずいている。最近は、いつもこうだ。だいぶ視力が衰えてきたなア。そんな思いを、深刻めかさずに詠んでいる。テーマが「藺ざぶとん」そのものにはなく、名前の一文字であるところから、とぼけた味わいが浮かんでくるのだ。多くの読者にとっては、どうでもよいようなことであり、もとより爽波もそんなことは承知の上で作っている。これぞ、人をクッた爽波流。そういえば辻征夫(俳号・貨物船)にも似たような才質があって、たとえば「つという雨ゆという雨ぽつりぽつり」であるが、上手いのか下手なのか、さっぱりわからない。でも、確実にとぼけた良い味は出せている。『一筆』(1990)所収。(清水哲男)


August 1182000

 落ちてゐるのは帰省子の財布なり

                           波多野爽波

敷の隅に財布が落ちている。置いてあるのではなく、落ちている。財布や手帳などは、使い慣れた持ち主にはなんでもないものだが、それ以外の人には異物と写る。作者も異物と認め、ハテナと首をかしげるほどもなく、もちろん気がついた。ひさしぶりに帰省した子供の財布だ。上着を脱いだときに、内ポケットから滑り落ちたのだ。拾ってちらと眺め、高いところに置いてやる。帰省子は、早速の入浴か、疲れて昼寝中か。いずれにしても旅装を解いて、くつろいでいる。掲句は、二つのことを言っている。拾った父親としては、いつの間にかちゃんとした財布を持つまでになった子の成長に感嘆し、子供は財布を落としたことにも気づかないことで、はからずも実家への最高の安堵感を示した……。たった十七文字で「実家」の構造を的確に描き出した腕前は、見事と言うしかない。このような場景なら、それこそどこにでも落ちている。拾い上げられるかどうかは、やはり修練の多寡によるのだろう。帰省といえば、芝不器男に「さきだてる鵞鳥踏まじと帰省かな」という名句がある。この世で最高に安堵できるところは、もう目と鼻の先なのだ。はやる心を抑えながらも、ついつい急ぎ足になってしまう。『一筆』(1990)所収。(清水哲男)


September 1692000

 仲よしの女二人の月見かな

                           波多野爽波

性の読者には、案外難解に写るかもしれない。詠まれている情景ではなく、なぜこんな句を詠むのかという作者の心持ちが……。男同士の「仲よし」だと、こんな具合の句にはならないだろう。ここで爽波は、「仲よしの女二人」の姿に、単に微笑を浮かべているのではない。月見の二人は、作者の家族である姉妹か母娘か。いずれにしても、血の通った女同士だと読める。他人同士と読めなくもないが、そうすると、その場に居合わせている作者との関係に無理が生じる。自宅の庭先での「月見」とみるのが自然だ。作者は二人から少し離れた位置にあり、もちろん微笑はしているが、他方でかすかな疎外感も覚えている。作者は、女たちの「仲よし」ぶりに入っていけない。べつに入りたいわけじゃないし、無視されているのでもないけれど、どこかで「月見」の場が彼女たちに占拠されているような、そんな不思議な気分なのだ。だから、自分もその場に存在するのに、あえて「二人の月見」と詠んだわけである。我が家は私と女三人の家族だから、こういう感じは日常茶飯に起きる。毎度のこと。「つまるところ、女同士は血縁しか信じない」と言った女性(誰だったかは失念)の言葉を、たまに思い出す。「仲よし」の構造が、どうも男とは違うようだ。その意味から言えば、武者小路実篤の「君は君、僕は僕、されど仲よき」なんて言いようは、まさに男ならではの発想であって、これまた女性には、なかなかわからない言葉ではないかと愚考する次第。『鋪道の花』(1956)所収。(清水哲男)


November 03112000

 黄落の我に減塩醤油かな

                           波多野爽波

嘲というよりも、戸惑いの苦笑に近い句。作句年齢は、還暦前後と推定される。比喩的に言えば、まさに人生の黄落(こうらく)期にさしかかってくる年齢での句だ。「我に」と言うのだから、「我」以外の家族は「減塩醤油」ではないわけだ。おそらくは、妻か嫁さんの特別な気遣いから出された「減塩醤油」なのである。その気遣いを、どう受け止めればよいのか。作者は「減塩醤油」の小瓶を「ほお」とひねくりまわしながら、複雑な心境にある。健康を気づかってくれるのはありがたいが、塩味を抜いた醤油の美味かろうはずもない。といって「普通の醤油でいいよ」と言えば角が立つ。さても、哀れなことになっちまったな。そういう句である。この句を読んで思い出したのは、学生時代に遊びに行くと、祖母が必ずこぼしていた言葉。「あの人たち(息子夫婦)は美味しいものを食べて、私には食べさせてくれない」。嫁さんに取材してみたら「お年寄りには毒ですさかいに……」。この行き違いが、掲句のモチーフに含まれているだろう。還暦を超えた私には、ようやく実感的に句意が響いてくる。で、ここからは私の願望と意見。年寄りには、好きなものを食わせよ。ついでに、禁酒禁煙などもとんでもない。小津映画でお馴染の俳優・中村伸郎さんは大の煙草好きだった。が、晩年は「健康」のためにと、医者からも周囲からも厳しく喫煙を禁じられた。当人が死ぬ苦しみで煙草を我慢しているうちに、本当に死んでしまった。通夜の席で誰言うとなく、みんなで煙草を吸って線香代わりに霊前に捧げたのだという。そんなアホな。中村さんにちらりと面識のあった私としては、大いに義憤を感じましたね。『骰子』(1986)所収。(清水哲男)


February 1022001

 忌籠の家の竹馬見えてをり

                           波多野爽波

集では、この句の前に「病篤しと竹馬の子の曰く」が置かれている。気にかかっている病人の様子を、その家の竹馬の子に「おじいちゃん、どんな様子かな」などと、さりげなく尋ねたときの答えだ。こういうことは、よくある。同じ家人でも、大人に尋ねるのは気が重い。それに、見舞いに行くほどの親しい間柄でもない。道で会ったら、会釈を交わす程度の町内の知り合いだ。「曰く」という表現には、竹馬に乗った子供が作者よりも高い位置から病状を告げた様子が見えて妙。さて、揚句ではその病人が亡くなった。通りかかった家の中はしいんとしており、玄関脇に子供の竹馬が立て掛けられているのが見える。ただこれだけの描写だけれど、冷え冷えとした竹馬が忌籠(忌中)の家の様子を雄弁に物語っている。なかでも、いつものように竹馬で遊べない子の神妙な表情までが見えてくるようではないか。このとき、竹馬はまさに「悲しき玩具」である。竹馬遊びは古くから行われていたようで、西行の「竹馬を杖にも今日は頼むかな童遊びを思出でつつ」は有名だ。ただし、この竹馬は笹の葉のついた竹を馬に見立てて、またがって遊んだものらしい。いまのような竹馬は、近世の産物か。冬の季語とされているが、この理由もよくわからない。「竹八月に木六月」といって、竹の伐りどきは秋口である。伐採されなかったり廃材化した無用の竹で作ったので、必然的に冬の遊び道具になったのかもしれない。なお「忌籠」は「いごもり」。『一筆』(1990)所収。(清水哲男)


May 2952001

 鴨居に頭うつて坐れば水貝よ

                           波多野爽波

波は長身だった。「寝そべりてわが長身や楝咲く」がある。「楝(おうち)」はセンダンの古名で、夏に咲く。しかし、いかな長身といえども、普通の家の鴨居(かもい)に頭をぶつけることは稀だろう。長身の人は日頃から腰をかがめるなどして、それなりに用心しているからだ。私は「船遊び」の図だと見る。納涼船の部屋の鴨居ならば、普通の背丈の人でも、少し腰をかがめないと入れない。もちろん作者もかがめたのだが、見当が狂った。いきなりガツーンと来て、くらくらっとなった。打ったデコチンに手を当てて、とにかくよろよろと坐り込む。しばらく目を閉じて痛みをこらえ、おさまりかけたので目を開けてみると、好物の「水貝(みずがい)」がクローズアップされて目に入ってきたというのだ。おお「水貝よ」。泣き笑いの感じがよく出ていて、とぼけた可笑しさがある。こんなことまで句にしてしまうところが、爽波一流の諧謔精神の発露と言えよう。ちなみに、「水貝」は新鮮な生アワビの肉を賽の目に切り、氷片を浮かせて肉をしめ、塩を少々振った料理だ。ワサビ醤油やショウガ酢などで食べる。夏の季語。『骰子』(1986)所収。(清水哲男)


July 0972001

 山風を盆地へとほす葭障子

                           藤田直子

かにも涼しそうだ。実際にはどうであれ、座敷などに「葭障子(よししょうじ)」が建てつけてあるだけで、涼味を誘う。その涼味をあらわすのに、山からの風を「盆地へとほす」(ようだ)と大きく張ったところが素晴らしい。かりに「葭障子」の発明者がいるとして、掲句を読んだら、ここに本意きわまれりと感激するにちがいない。網戸や簾(すだれ)、暖簾(のれん)などもそうだし、夏料理にしてもそうだが、湿気の多い日本の夏を少しでも涼しく過ごすための工夫は、一つ一つを考えてみると、実に面白くもあり感心もさせられる。現今の暴力的な冷房装置とは違い、五感すべてをフルに動員してこその涼味が、そこにある。人間をも含めた自然との親和的な交感が、具体的に表現されている。「葭障子」の近代版は網戸と言えようが、波多野爽波にこんな愉快な句がある。「網戸越し例の合図をしてゆける」。網戸は表から室内が丸見えになっているようでいて、さにあらず。むろん昼間にかぎるが、表のほうがよほど明るいので、表からは中がよく見えない。その見えない薄暗がりに向けて、「今夜は例のところで一杯やろうぜ」などと「合図」を送ってきた悪友の姿がほほ笑ましい。私生活がほんのりと表に開かれていた時代のほうが、私は好きだな。『極楽鳥花』(1997)所収。(清水哲男)


August 2882001

 出穂の香のはげしく来るや閨の闇

                           波多野爽波

会で、穂高(ほたか)町(長野県南安曇郡)を訪れた。敗戦までは陸軍の練兵場として使われ、戦後になって開拓された土地だという。いかにも新興の田園地帯らしく、見渡すかぎりの水田のなかを走る道はまっすぐだ。有名な碌山美術館や山葵田などいろいろと見物して歩いたが、いちばん印象深かったのは黄色く色づきはじめた稲の発する香りだった。農村に育った私だが、すっかり忘れていた濃密な香りである。何度も腹いっぱい吸い込んできた。これだけでも、出かけてきた甲斐があると思った。爽波はこのとき大阪市内に住んでいたから、やはり旅先での印象だろう。「閨(ねや)」は、寝室。「出穂(でほ)」のころはまだ暑いので、網戸だけを閉めた部屋で寝ていると、風に乗った「出穂の香」が、予想外の濃密さで流れ込んできた。むせびたくなるほどだ。もはや「閨の闇」全体がその香で満たされ、胸を圧してくるようである。こうなると、なかなか眠れそうにない……。都会生活に慣れた人が田舎に出かけると、ときとして思いがけないことに遭遇する例の一つだ。でも、作者はこのことを煩わしく思ったのではない。眠れずに闇の中で目を開けながら、一方で充実した自然とともにある自分の状態に満足している。『一筆』(1990)所収。(清水哲男)


September 1192001

 秋の夜の時計に時計合せ寝る

                           波多野爽波

日の朝は、早く起床しなければならない。そこで、目覚まし時計をセットしたのだろう。ラジオなどの時報に合わせるのではなく、室内の掛け時計に合わせた。いつも見慣れている掛け時計だから、少し進み気味だとか遅れ気味だとかを熟知しているので、そのあたりの誤差を計算して慎重に合わせたのだ。それでも正しくセットされたかどうかが気になり、何度も確かめている。思い当たる読者も多いだろう。では、なぜ「秋の夜」なのだろうか。時計を合わせることと季節とは、本来無関係である。必然性は、こういうことだろう。秋に入ると日の出がどんどん遅くなるので、まだ夏の日の出感覚から抜けきれない身には、そこが心配になる。夏だと窓が明るくなっても「まだこんな時間か」と、もう一寝入りできたのだが、その感覚で秋の時刻をとらえると間違ってしまう。それに、秋は熱帯夜もないので、ぐっすりと眠れる。そんな要素が重なって、寝過ごしやすいのが秋という季節。だからこそ、時計を慎重の上にも慎重に合わせたというわけだ。かつて早朝のラジオ番組を担当していたころには、私は毎晩三つの目覚まし時計をセットして寝ていた。手巻きで動く時計と電池式のものと、そしてもう一つはAC電源で動くものと。もしも、これらが偶然に全部故障したら、こいつはもう「どうにもならねえや」という心持ち。でも、やっぱり心配は心配だった。『舗道の花』(1956)所収。(清水哲男)


January 1312002

 麦の芽にぢかに灯を当て探しもの

                           波多野爽波

語は「麦の芽」で冬。冬枯れのなかに並ぶ若芽は、けなげな感じもあって印象深い。そのあたりを如何に詠むかが、俳人諸氏の腕の見せどころだ。たとえば虚子は「麦の芽の丘の起伏も美まし国」と、まことに美々しく詠んでいる。「美まし」は「うまし」。洒落るわけではないが「巧(うま)し」句ではある。類句とは言わなくとも、同じような情景の切り取り方をした句はゴマンとある。そんななかで、掲句は異色だ。麦畑を通りながら、不覚にも何か大切な物を落としてしまった。……と、帰宅してから気がついたのだろう。どう考えても、あのときにあのあたりで落としたようだ。もう日が暮れているので、懐中電灯を持って慌てて取って返す。で、たしかこの辺だったかなと見当をつけて懐中電灯のスイッチを入れた。その瞬間の情景をつかまえた句である。光の輪のなかに、とつぜん鮮やかに浮かび上がってきたのは当然ではあるが「麦の芽」だった。さて、読者諸兄姉よ。この瞬間に作者の目に写った「麦の芽」の生々しさを思うべし。こんなにも間近に、こんなにも「ぢかに」鮮やかに「麦の芽」を見ることなどは、作者にしても無論はじめてなのだ。「探しもの」が見つかったかどうかは別にして、この生々しさを句にとどめ得た爽波という人は、やはり只者ではない俳人だとうなずかれることだろう。晩年の作。1991年に、六十八歳で亡くなられた。もっともっと長生きしてほしい才能だった。『波多野爽波』(1992・花神コレクション)所収。(清水哲男)


February 2822002

 春月や犬も用ある如く行く

                           波多野爽波

の月はさやけきを賞で、春の月は朧(おぼろ)なるを賞づ。さて、まずは「犬も」の「も」に注目しよう。逆に言えば、作者「も」ということになるからである。朧月に誘われての夜の散歩だ。ぶらぶらと、その辺を歩いている。中秋の名月あたりの宵ならば、そぞろ歩きも通行人には不審に思われないだろう。が、春に月見の習俗はないので、すれ違う人に怪しい徘徊者と誤解される危険性がある。そのことを心得て、作者は人とすれ違うたびに、さも「用ある如く」少し足早になったりするのである。そのうちに、向こうから犬がやってきた。で、すれ違うときに、ひょいと犬の顔を見ると、いかにも分別臭く用ありげな表情で歩いていたと言うのである。さっき人と行きあったときの自分の表情も、きっとあんなだったろうなと思うと、じわりと可笑しさが込み上げてきた。そういう句だ。爽波は「写生の世界は自由闊達(かったつ)の世界である」と言った人。なるほどねと、うなずける。戦後七年目の1952年の作。このころにはまだ、犬が放し飼いにされていたことがわかる。大きくて恐そうな犬が道の真ん中に寝そべっていたりして、子供などはわざわざ回り道をしたものだった。そんな時代もありました。往時茫々たり。ちなみに、今宵の月齢は15.8。ほぼ真ん丸な月が見られる。『舗道の花』(1956)所収。(清水哲男)


March 2932002

 蘖や切出し持つて庭にゐる

                           波多野爽波

語は「蘖(ひこばえ)」で春。木の切り株から若芽が萌え出るのが、蘖だ。「孫(ひこ)生え」に由来するらしい。「切出し」は、工作などに使う切出しナイフのこと。実景だろうが、庭に蘖を認めた作者の手には、たまたま切出しがあったということで、両者には何の関係もない。偶然である。しかし、この「たまたま」の情景をもしも誰かが目撃したとすれば、たちまちにして両者が関係づけられる可能性は大だ。つまり、せっかく萌え出てきた生命を、これから作者が無慈悲にも切り取ろうとしているなどと。そんなふうに、作者のなかの「誰か」が気づいたので、句になったのだ。おそらく、作者は大いに苦笑したことだろう。このあたりを言い止めるところはいかにも爽波らしいが、瞬時にもせよ、もう少し作者の意識は先に伸びていたのかもしれないと思った。すなわち、このときの作者には、本気で若芽を断ち切ろうとする殺意がよぎったということだ。そして、この想像はあながち深読みでもないだろうなとも思った。実際、刃物を手にしていると、ふっとそんな気になることがある。次の瞬間には首を振って正気に戻りはするのだけれど、鉈で薪割りをしていた少年時代には、何度もそんな気分に襲われた。いったい、あれは自分のなかの那辺からわいてくる心理状態なのか。刃物の魔力と総括するほうが気は楽だが、やはり人間本来の性(さが)に根ざしているのではあるまいか。『骰子』(1986)所収。(清水哲男)


May 1952002

 昼が夜となりし日傘を持ちつづけ

                           波多野爽波

生として京都に移り住んだとき、関西の男がよく日傘をさしているのを見て、軽いカルチャー・ショックを受けたことを思い出した。さすがに若者はさしていなかったが、老人には多かった。夜の日傘。これぞ、絵に描いたような無用の長物だ。捨ててしまうわけにもいかず、何の役にも立たない長物を持ち歩く鬱陶しさ。句の様子からして、昼間もあまり使わなかったのかもしれない。不機嫌というほどでもないが、なんだか自分が馬鹿みたいに思われてくる。周囲の人たちは傘を持たずに歩いているので、余計にそう感じられる。たった一本の傘でも、さざ波のように苛立つ心。とくに傘嫌いの私には、よくわかる句だ。しかも、第三者たる読者には、なんとなく滑稽にさえ読める。以下、参考までに日傘の成り立ちを『スーパー・ニッポニカ2002』(小学館)より引き写しておこう。「元来は子供のさすものであった。江戸時代初期、男女ともに布帛(ふはく)で顔を包み隠すことが行われ、これを覆面といって、外出には欠くことのできないものであった。ところが17世紀中ごろ、浪人たちによる幕府転覆計画が発覚し、幕府は覆面の禁令を発布した。このため男女ともに素顔(すがお)で歩かざるをえなくなり、笠のかわりに、大人も日傘を用いるようになった。女性のさし物として日傘が定着したのは、宝暦(ほうれき)年間(1751〜64)からである」。イスラム教徒の女性が顔を隠す風習を奇異と見るのは、どうやら筋違いのようですね。『舗道の花』(1956)所収。(清水哲男)


November 19112002

 折詰に鯛の尾が出て隙間風

                           波多野爽波

語は「隙間風」で冬。「鯛の尾が出て」いる「折詰(おりづめ)」が配られているのだから、何か祝いの席なのだろう。大広間だ。いまのように暖房装置が発達していなかったころの日本間は、本当に寒かった。坐る場所によっては、小さな隙間から容赦なく風が入り込んでくるので辛かった。なにしろ「寸分の隙間うかがふ隙間風」(杉田久女)というくらいなものである。たとえすぐ傍らに火鉢が置いてあっても、何の役にも立ちはしない。運悪く、作者はそんな席に着いている。寒くてかなわん、早く終わってくれ。そんなときに限って、祝辞やら挨拶やらがいつ果てるともなくつづいていく。目の前の仕出し弁当も、どんどん冷たくなっていくようだ。やがてこの冷えきった折詰を開いてつつくのかと思うと、いよいよ寒さが募ってくる。出されたお茶などは、とっくのとうに冷えきっている。ときどき非難するような目で、隙間風の入ってくる方を見やったりする作者の姿までもが浮かんできて滑稽だが、当事者にしてみれば切実な問題なのだ。折詰の隙間からは、鯛の尾。部屋の隙間からは、冷たい風。この対比が、なおさらに滑稽感を誘ってくる。このように、気の毒だけれど滑稽に思えることは、他にもよくあることだ。それを短い言葉で的確に表現できる様式は、俳句をおいて他にはないだろう。『花神コレクション・波多野爽波』(1992)所収。(清水哲男)


May 2452003

 老人よどこも網戸にしてひとり

                           波多野爽波

や戸口を「どこも網戸にして」開け放っている家。その家の中にいる人の姿が、通行する人にぼんやりと見えている。老いた人が、ただひとりぽつねんと坐っている情景だ。誰もまじまじと見たりはしないのだけれど、瞥見しただけで、残像がしばらく網膜に焼き付く。辛そうだとか寂しそうだとかという思いからではなく、いわば「老人」の定型がそこにあるような心持ちからである。はじめて目にした人でも、何度となくこれまでに目撃したことがあるような思いを抱く光景であり、さもありなんと納得できるという意味で、定型なのだ。この老人は作者ではない。が、作者自身でもある。たまたま見かけた情景にさもありなんと納得し、納得した途端にあの年寄りと同じように老いている自分にあらためて気づいたのである。「老人の」とすれば他人事だが、「老人よ」と自分にも呼びかけている。あるいは、自分についても詠嘆している。爽波は第一句集『舗道の花』(1956)のエピグラフに「写生の世界は自由闊達の世界である」と書きつけた。終生、一貫して頑固なまでにこの道を歩きつづけて、掲句のようなさりげない光景から自由闊達に不思議な世界を見せてくれたのだった。現実を異化する力とでも言えばよいのか、そのパワフルな作句姿勢の根底にあったのは、自分という存在に対する飽くなき好奇心であったと思う。このことについては、また折々に具体的に述べていきたい。『一筆』(1990)所収。(清水哲男)


June 1262003

 柿若葉とはもう言へぬまだ言へる

                           波多野爽波

語は「柿若葉」で夏。初夏の陽射しに照り映える様子は、まことに美しい。が、問題はいまどきの季節で、まだ柿若葉と言っていいのかどうか。微妙なところだ。つくづく眺めながら、憮然としてつぶやいた格好の句である。「まだ言へる」と一応は自己納得はしてはみたものの、「しかしなあ……」と、いまひとつ踏ん切りがつかない心持ちだ。俳句を作らない人からすれば、どっちだっていいじゃないかと思うだろうが、写生を尊ぶ俳人にしてみれば、どっちだってよくはないのである。どっちかにしないと、写生にならないからだ。これはもう有季定型を旨とする俳人のビョーキみたいなもので、柿若葉に限らず、季節の変わり目には誰もがこのビョーキにかかる。季語はみな、そのものやその状態の旬をもって、ほとんど固定されている言葉なので、一見便利なようでいて、そんなに便利なツールではない。仮に表現一般が世界に名前をつける行為だとするならば、有季定型句ほどに厄介なジャンルもないだろう。なにしろ、季語は名前のいわば標本であり、自分で考え出した言葉ではないし、それを使って自分の気持ちにぴったりとくる名前をつけなければならないからだ。真面目な人ほど、ビョーキになって当然だろう。掲句は、自分のビョーキの状態を、そのまま忠実に写生してしまっている。なんたるシブトさ、なんたる二枚腰。『波多野爽波』(1992・花神コレクション)所収。(清水哲男)


December 27122003

 闘牛士の如くに煤を払ひけり

                           波多野爽波

語は「煤払(すすはらい)」。いまは神社仏閣などの年中行事は別にして、一般には年末の大掃除の意味で使われる。今日あたり、そんな家庭も多いことだろう。句の眼目はむろん「闘牛士の如く」にあるわけだが、いったいどんな格好でどんなふうに掃除をしたのだろうか。まさかマントを颯爽と翻してなんてことはあるまいから、「闘牛士の如く」はあくまでも作者の主観に属するイメージだ。周辺の誰が見ても、闘牛士には見えるはずもない。強いて感じることがあるとすれば、常になく張り切って掃除に励む作者の姿くらいなものである。だが、そんなことは百も承知で、イケシャアシャアと闘牛士を持ちだしたところに、爽波のサービス精神躍如たるものがある。本人だって、具体的なイメージがあるのではない。なんとなく闘牛士みたいだなと思いつつ、機嫌よく掃除ができたのである。で、その突拍子もない気分をそのまま書いて、あとのことは読者にいわば託したというわけだ。どんなふうにでもご自由に想像してくださいな、と。そしてここで重要なのは、作者が自分の滑稽な世界を提出するに際して、ニコリともしていないところだ。「払ひけり」と、むしろ生真面目な顔つきである。この顔つきがあって、はじめて滑稽さが伝わるのだと、ちゃんと作者は心得ている。三流のお笑い芸人がしらけるのは、彼らは滑稽なネタを笑いながら披露するからだ。自分の話に自分で笑うようでは、世話はない。サービス精神の何たるかを履き違えているのである。『一筆』(1990)所収。(清水哲男)


January 0212004

 懸想文売りに懸想をしてみても

                           西野文代

語は「懸想文売(けそうぶみうり)」で新年。現代の歳時記には、まず載っていないだろう。江戸期の季語だ。「懸想文」とは艶書、ラブレターのことだが、まさかラブレターを売ってまわったわけじゃない。曲亭馬琴の編纂した『俳諧歳時記栞草』(岩波文庫)に、こうある。「鷺水云、赤き袴、立烏帽子にてありく也。銭を与へつれば、女の縁の目出たく有べしといふことを、つくり祝して洗米をあたへ帰る也。今は絶て其事なければ、恋の文のやうに覚えたる人も有故に、口伝をこゝにしるしはべる」。要するに、良縁を得る縁起物を売り歩いた男のことである。馬琴の生きた18世紀後半から19世紀半ばのころにも、既に存在しなかったようで、「それって、なに?」の世界だったわけだ。ところが、ところが……。1923年に京都で生まれた作者は、馬琴も見たことのない「懸想文売り」に、実際に会っている。こう書いている。「その年の懸想文売りは匂うように美しかった。おもてをつつむ白絹のあわいからのぞく切れ長な目。それは、男であるということを忘れさせるほどの艶があった」。で、掲句ができたわけだが、ううむ、いかな京都でもそんな商売が成り立っていたのだろうか。作者は、八百円で買ったというが……。その日は、ちょうど波多野爽波の句会があって、さっそく作者がこの題を出したところ、爽波が言ったそうだ。「誰ですか。こんな作りにくい題を出したのは」。たしかに作りにくかろうが、しかし懸想文売りの存在は爽波も一座の人も知っていたことになる。で、その席で爽波が作りにくそうに作った句が、「東山三十六峰懸想文」。何のこっちゃろか。『おはいりやして』(1998)所収。(清水哲男)


March 1132004

 春宵を番台にただ坐りをり

                           波多野爽波

語は「春宵(春の宵)」。一風呂浴びて戻る客は、道すがら「春宵一刻値千金」などと、しばし艶めいた感傷に耽ったりするわけだが、ここ「番台に」ただ坐っている人は、そんな心情とは一切無縁である。べつに同情をしているのではなくて、立場により同じ一刻の感じ方がかくも違うことに気がついて、作者は「ふーむ」と感じ入っているのだ。句の可笑しみは、番台の人のありようから発しているというよりも、むしろ作者の「ふーむ」から滲み出てくる。漱石あたりのユーモアに似ている。その前に、もうひとつ可笑しみの大きな要因がある。極めて大切なことだから書いておくが、私たちが可笑しく感じるのは、この一行を「俳句」だと認証し、それを前提にするからだ。俳句だと思うから、ポピュラーな季語である「春宵」にかなり過剰な思いを入れ込んで読みはじめるのである。そのことは初手から作者の計算のうちに、ちゃんと入っている。入っているから、読者の季語に対する先入観を利用して、不意に番台の人を登場させ、いわば読者の上ってきた「季語という梯子」をいきなり外してみせたのである。ここに、可笑しみを生じさせる最大の手管がある。このことが示唆するものは大きい。ともすれば、過剰に季語に選りかかりすぎる者たちへの警鐘の句だと言ってもよいほどだ。有季定型を信条とする詠み手も読者もが、おおかたは季語に溶け込むことにばかり腐心し、それも一概に否定はできないけれど、なんでもかでも季語の窓から世間を覗こうとする姿勢は、詩歌のためにもよろしくない。季語があるから世間がある。と、そんな馬鹿なことはないだろう。しかし、そんな馬鹿なことが横行しているのが、実は俳句の世界なのだ。掲句は、そこらへんを皮肉ってもいる。人さまざま、世間もとりどり。そのなかで俳句の位置は那辺にありや。頭でっかちならぬ「季語でっかち」俳句の無闇矢鱈な連発は、そろそろ打ち止めに願いたい。『舗道の花』(1956)所収。(清水哲男)


April 1442004

 ちぎり捨てあり山吹の花と葉と

                           波多野爽波

語は「山吹」で春。山道だろうか、それともコンクリートで舗装された都会の道だろうか。どちらでもよいと思う。いずれにしても、一枝の山吹が「ちぎり捨て」られている情景だ。しかし作者はそれを見て、心無い人の仕業に憤っているのでもなければ、可哀想にと拾い上げようとしているわけでもない。そうした感傷の心は働いていない。ただただ、打ち捨てられている山吹の生々しさに、少し大袈裟に言えば息をのんでいるのである。「花と葉と」というわざわざの念押しに、瞬時かもしれないが、凝視する作者の様子が重ねられている。このとき、たとえ近くに山吹の花が咲き乱れていようとも、最も存在感があるのはちぎり捨てられた花のほうだろう。木から落ちた果実だとか、巣からこぼれた雛だとかと同じことで、本来そこにはないはずの事物がそこに存在するときに、それらはひどく生々しく写り、思いがけない衝撃を私たちにもたらす。ときにそれらは、生臭いほどにまで生々しい。句は淡々とした写生句ながら、いや淡々と詠まれているだけに、逆に捨てられた山吹の生々しさがよく伝わってくる。主観や主情を排した写生的方法の手柄と言うべきか。作者とともに読者も、しばしこの山吹を凝視することになるのである。爽波は、初期に「写生の世界は自由闊達の世界である」と言った人だ。掲句では捨てられた山吹だけを写生しているわけだが、そのことによって、なるほど自由闊達な広い世界へと読者を誘っていく。俳句手法の持つ不思議なところでもあり、不可解なところでもあり、また魅力的なところでもある。『湯呑』(1981)所収。(清水哲男)


June 1662004

 巻尺を伸ばしてゆけば源五郎

                           波多野爽波

のう「大八」、きょう「源五郎」(笑)。夏の季語だ。甲虫の仲間の小さな黒光りした虫で、水中を素早く泳ぎ回る。平井照敏の編纂した『新歳時記』(河出文庫)に、「子どもの頃の男の子の心を引きつけた虫」とあるように、愛敬があって、少しも気持ち悪くない。捕まえることはしなかったが、見ていて飽きない虫だった。何かの長さを測るために作者が「巻尺(まきじゃく)」を伸ばしていったら、その先に此奴がいたと言うのである。べつに人生の一大事件でもないし、いたからといって吃驚したのでもなければ作業を邪魔されたわけでもない。つまり、作者には何の関係もない虫が泳いでいただけで、それをわざわざ詠んだところに可笑しさがある。また単なる可笑しさだけではなく、句の奥のほうに戸外の作業で汗ばんでいる作者の姿がかいま見えるところに、得も言えぬ味わいがある。源五郎はスイーッスイーッと涼しい顔だが、作者は巻尺を伸ばしているくらいだから極めて慎重に事を進めている真顔なのだ。対比の妙と評すると月並みだが、とにかく爽波という人は選球眼が抜群に良かった。現役の野球選手に例えれば、巨人のペタジーニ選手みたいだ。絶対と言ってよいほどに、まずボールには手を出さないからである。巻尺を伸ばした先には、ぽつりと源五郎だけがいたわけじゃない。まずは池か小川などの水があり水辺があるわけで、そこには他の多くのものの存在がある。その多くのものの中から、何を拾い上げるのか。このセンスが俳人の勝負の分かれ目であり、爽波はほとんど拾い誤ったことはない。それは爽波が、いくつかの素材を瞬間的に接着することに俳句の面白さを見出していたからだろう。つまり球を打つ瞬間こそが一切で、そのボールがどこへ飛ぼうと、俺の知ったことじゃないという姿勢があった。その瞬間表現に、いままで見えなかった何かが見えてくる。『骰子』(1986)所収。(清水哲男)


October 11102005

 天高しやがて電柱目に入り来

                           波多野爽波

語は「天高し」で秋。澄み渡った秋の大空。作者は大いに気を良くして、天を仰いでいる。だが、だんだん視線を下ろしていくにつれ何本かの「電柱」が目に入ってきた。せっかくの青空になんという無粋で邪魔っけな電柱なんだ、興ざめな。……という解釈も成り立たないことはないけれど、作者の本意とは相当に隔たりがあるように思う。そうではなくて、実ははじめから作者の視野には電柱が入っていたと解釈したい。人間の目は、カメラのレンズのようには機能しない。視野に入っているものでも、見たいものが別にあればそちらにピントを合わせて見ることができる。言い換えれば、余計な他のものには意識がいかないので、視野の内にあっても見ないでいられる。それが証拠に、何か気に入ったものを写真に撮ってみると、思わぬ夾雑物がいっしょに写っていたりして慌てることがある。えっ、こんなものがあそこにあったっけなどと、後で首を傾げることは多い。作者の最初の関心は高い天であったから、はじめは電柱に気がつかなかっただけなのだ。それがしばらく仰ぎ見ているうちに、だんだんと気持ちが落ち着いてきて、視野の内にある他のものも見えてきはじめた。そんな人間の目の特性を発見して、作者は面白がっているのだろう。如何でしょうか。『舗道の花』(1956)所収。(清水哲男)


December 21122006

 冬ざるるリボンかければ贈り物

                           波多野爽波

れはてて眼に入るもの全て寂しく荒れた様子が「冬ざるる」景色。そんな寒々としたシーンを読み手の脳裏に広げておいて、リボンをかけた贈り物へきゅっと焦点が絞られる。きっちりと上五で切れた二句一章の句だが、冬ざれた景そのものにサテンのリボンをかけて贈り物にしたような大らかさも感じられる。今やプレゼントも四季を問わず気軽に交換しあうものになりつつあるが、冬の最大の贈り物と言えばやはりクリスマスプレゼントだろう。この日の贈り物については昔から様々な物語がある。ブッシュ・ド・ノエルと呼ばれるクリスマスの棒状のケーキは、贈り物を買えない貧しい青年がひと抱えの薪にリボンを結んで恋人に贈ったのが始まりとか。愛する人を喜ばせようと心をこめて結ばれるリボン。「リボンかければ贈り物」と当たり前すぎるぐらい率直な言葉が贈り物の秘密を解き明かしているようである。この句のよさを言葉で説き明かすのは難しいけど作者の心ばえが、冬ざれた景に暖かい灯をともしているのは確かだろう。もうすぐクリスマス。間近に控えた大切な夜のため、きれいなリボンをかけた贈り物が押入れの奥に、車のトランクにそっとしまわれているかもしれない。『波多野爽波句集』第2巻(1990)所収。(三宅やよい)


February 1622007

 骰子の一の目赤し春の山

                           波多野爽波

規の提唱した「写生」と虚子が言った「花鳥諷詠」の違いは、前者が「写すこと」の効果を提唱したのに対して、後者は俳句的情緒を絶対条件としたこと。だから後者は「写生」ではなくて、俳句的ロマンを旨としたと言った方がいい。いわゆる神社仏閣老病死がその代表的な例。ところが虚子の弟子にも変人は出るもので、虚子先生が情緒を詠めと言っておられるのに、情緒などお構いなしに、しっかりと「写す」ことを実行した俳人がいる。高野素十とこの爽波がそれである。作る側が情緒を意図せずとも、「もの」をそこに置けば、勝手に「もの」が動いて「感動」を作り出す。「もの」の選択に「俳句的素材」などという判断は不要、それが俳句という短詩形の特殊な在り方を生かす方法、つまり「写生」であると理解するに到った変り種である。その理屈で出発すると、論理は、では「写す」ことと季語はどう関わるのかというところに行かざるを得ない。季語と写生は必然的な結びつきなのかという疑問も出てくる。しかし、素十も爽波も季語は捨てない。「もの」の選択の範囲を広げた分、情緒を季語に依存しようとしたのか。骰子(サイコロ)の一の目が赤く大きく目を瞠り、そのイメージに春の山の景を被せる。「赤し」と春が色彩として同系。サイコロの存在感が山と呼応する。爽波のような反情緒の「もの」派も、そこのところで「季語の恩寵」を言うんだろうなあ。『骰子』(1986)所収。(今井 聖)


May 2752007

 曾て住みし町よ夜店が坂なりに

                           波多野爽波

て(かつて)と読みます。季語は「夜店」。言うまでもなく路上で商いをする露天商のことです。神社やお寺の縁日になると、道の両側に色とりどりの飾り付けをした店が並びます。掲句を読んで、胸がしめつけられるような思いを抱いた人は多いと思います。「曾て住みし町よ」の詠嘆が、読み手の心を一気に掴みます。読むものそれぞれに、昔の出来事や風景が浮かんできます。また、「坂なり」という言葉も印象的です。あまり使われない言い方ですが、坂の傾斜に沿って、という意味なのでしょうか。この傾斜が、句全体に微妙な心の揺らぎをもたらしています。若い頃に暮らしていた町。若かったからできた生活。毎日のように会っていた友人たち。引っ越した日の空までもが目に浮かんできます。あれからいろいろなことがあって、歳をとり、家庭を持ち、今はもう忙しい毎日にふりまわされるばかりで、この町を思い出すことはありません。用事があって久しぶりに訪れた町です。見れば薄暗くなってゆく空の下に、まぶしいほどの光を灯して夜店が出はじめています。なつかしくも楽しい気分になって歩いていると、急に心がざわめいてきます。あの人は今どうしているだろう。うつむいて歩くゆるい下り坂に、かすかにバランスがくずれます。『作句歳時記 夏』(1989・講談社)所載。(松下育男)


March 1232010

 口笛や沈む木に蝌蚪のりてゐし

                           田中裕明

むは進行形ではなくて沈んでいる状態。水底にある木におたまじゃくしが乗っている。中七下五は的確な写生。伝統俳句と呼ばれる範疇での通常の作りかたは、この的確な写生の部分を壊さぬように、上五には、下部を援護する表現をもってくるのが普通であろう。春の水中が見えるにふさわしい光とか時間とか、空の色とか、風とか。しかし、それをやると風景構成としての辻褄が合い、絵としてのバランスはとれるが、破綻のない代わりに露店で売る掛軸のようなべたべたの類型的風景になりがちである。裕明さんの師波多野爽波さんはその危惧を熟知していたから、そのときその瞬間に偶然そこに在った(ような)事物を入れる。(巻尺を伸ばしていけば源五郎)のごとく。これをやると現実の生き生きとした瞬間が出るが、まったく作品としての統一感のない、なんのこっちゃというような「大はずれ」も生ずる。しかしべたべたの類型的風景を描くのを潔しとせず、「大はずれ」の危険性を冒して討って出るわけである。この句の口笛がそう。さらに口笛やの「や」も。意外なものを持ってきた上に「や」を付けてわざと読者の側に放り投げる。どんと置かれた「口笛や」が下句に対して効果的あるかどうか。さあ、どうや、と匕首のように読者はつきつけられている。『青新人會作品集』(1987)所収。(今井 聖)


April 2242011

 パチンコをして白魚の潮待ちす

                           波多野爽波

常の中のあらゆる瞬間に「詩」が転がっている。「私」の個人的な事情をわがままに詠えばいいのだ。素材を選ばず、古い情緒におもねらず、「常識」に譲歩せず、そのときその瞬間の「今」を切り取ること。爽波俳句はそんなことを教えてくれる。悩んでいるとき迷っているとき、その人に会って談笑するだけで心が展けてくる。そんな人がいる。これでいいのだ、それで大丈夫だと口に出さずとも感じさせてくれる人物がいる。爽波俳句はそんな俳句だ。これでいいのだ。『骰子』(1986)所収。(今井 聖)


November 18112011

 焼藷の破片や体を伝ひ落つ

                           波多野爽波

〜んと唸ってこりゃすごいやと思う句は才能を感じたときだな。巧いとかよくこんな機智を考えついたなというのは大した感動じゃない。こりゃあ、ついていけん、負けたという句に出会いたいのだ。そういう意味ではこの句には僕は脱帽だ。まず破片という言葉の発想が出ない。伝ひ落つも出ないな。これが滑稽を狙った句に見える人はだめだな。焼藷→女性が好き→おならというような俗の連想でしか事象を見られないとこの句が滑稽の句になる。焼藷を食う。ぼろぼろと皮が落ちる。男でも女でも老人でも子どもでもいい。即物客観。連続する時間の中の瞬間が言い止められている。これが「写生」の真骨頂だ。「はじめより水澄んでゐし葬りかな」「大根の花や青空色足らぬ 」「大根の花まで飛んでありし下駄」爽波さんにはこんな句もあるがみんなイメージの跳び方に独自性を図ってそれを従来の型に嵌めこんだ句だ。ここには熟達した技量は感じられてもそれをもって到達できる範囲だという感じがある。この句は技術や努力では出来ません。『湯呑』(1981)所収。(今井 聖)


October 11102012

 鳥威し雨に沈みてゐるもあり

                           波多野爽波

ちこちの田んぼではもう稲刈りは終わっただろうか。金色に垂れる稲穂を雀などから守るためにピカピカ光る鳥威しが田んぼのあちこちに結わえられている。そのうちの一つが雨に打たれて落ち、そのまま水たまりに浸かっているのだろうか。濡れそぼつ鳥威しがなまなましく感じられる。「鳥威し」が空中にひるがえり鳥を威嚇するものという概念に囚われていると見いだせない現実だ。眼前にある対象を描写しただけに思えるこのような句について語るのは難しいが、そんなとき「無内容、無思想な空虚な壺に水のように注がれて初めて匂い出て来るもの」と言った山本健吉の言葉をふと思い出す。「日本大歳時記」(1985)所載。(三宅やよい)


August 0282013

 赤と青闘つてゐる夕焼かな

                           波多野爽波

焼け空がだんだんと広がって行く。青空の方が、少なくなって行くが、そのさまを「闘つてゐる」と喩えた。表現に若さが感じられるが、緊張感のある作品である。一方、山口青邨に、「初空の藍と茜と満たしあふ」という句があるが、こちらの方は、おおらかな情景。両者の作風の違いもうかがえて面白い。『鋪道の花』(1956)所収。(中岡毅雄)


August 0982013

 金魚玉とり落しなば鋪道の花

                           波多野爽波

魚玉は、玉状に造られたガラス器に金魚を入れ、軒先などに吊して涼を楽しむもの。この句、金魚玉を実際に落としたわけではない。「とり落し」+「な」+「ば」であって、「な」は完了の助動詞の未然形。「もし、落としてしまったら」という順接の仮定条件である。光景としては、金魚玉を提げて、鋪道を歩いているのだろうか。その時、ふと、淡い強迫観念のような心情が過ぎったのである。もし、この金魚玉を落としてしまったら、割れてしまい、金魚は、鋪道の花のようになるであろうと。作者の美意識と繊細な感受性が表れた作品である。『鋪道の花』(1956)所収。(中岡毅雄)


August 1682013

 夕焼の中に危ふく人の立つ

                           波多野爽波

焼けの中に立っている人の存在感を、「危ふく」と捉えた。実際には、立っていた人は、危なっかしげであったのではあるまい。「危ふく」感じたのは、作者自身の主観。危うかったのは、作者自身の精神状態であったのではないか。波多野爽波の作品には、しばしば、不安感を表出したものが見られる。『鋪道の花』(1956)所収。(中岡毅雄)


August 2382013

 セルの袖煙草の箱の軽さあり

                           波多野爽波

ルは、薄い毛織物で作った初夏の「単衣(ひとえ)」。セルの袖に煙草を一箱入れているのだが、その重みを「重さあり」と言わずに、「軽さあり」と表現したところが、一句の見所。作者の軽やかな心も、涼しげなイメージも伝わってくる。『湯呑』(1981)所収。(中岡毅雄)


August 3082013

 玄関のただ開いてゐる茂かな

                           波多野爽波

でもない光景のようだが、中七の「ただ開いてゐる」に注意。「開いてをりたる」ならば、単なる情景描写だが、「ただ開いてゐる」と表現すると、通常の空間は、異次元の空間に変化する。玄関の外には、虚無感ただよう生々しい茂りが広がっているのだ。何気ない日常から切り取られた風景は、作者の心の中で、不気味さを増している。『骰子』(1986)所収。(中岡毅雄)


September 0692013

 夕方の顔が爽やか吉野の子

                           波多野爽波

方の顔、とあるので、下校途中か、帰宅への道であろうか。解放感にあふれた子供の様子がうかがえる。「吉野」は、もちろん奈良県吉野郡吉野町。春の吉野は花のため人々でにぎわうが、この句は、秋の吉野。春のような喧騒はなく、静かで落ちついている。吉野の山のたたずまいも感じられて、風土の爽快感が一句の雰囲気を、より爽やかなものにしている。『湯呑』(1981)所収。(中岡毅雄)


September 1392013

 夜の湖の暗きを流れ桐一葉

                           波多野爽波

の句には、爽波の自註がある。作句工房がうかがえて、面白い。「真っ暗な湖上をいくら眺めすかして見ても、はるかの沖を流れる桐の一葉など目に入る筈がない。その場で確かに見たのは(略)湖の渚に流れつき漂い浮かぶ一枚の桐の一葉そのものだった。」(『波多野爽波全集』第三巻)実際に目にしたのは、湖畔に流れ着いた桐の葉が、たぷたぷ、渚に漂っている様子だったのだ。また、次のようにも述べている。「湖畔の燈火の下にもまれ漂う桐の一葉に目を凝らしているとき、初秋の湖の殊のほかの暗さを想い、目の前のここの桐の一葉から暗闇の湖上はるかを可成りの速度で流れ続けているであろう、かしこの桐の一葉を瞬時にまなうらに見て取ったのである。」(同)夜の湖を流れている桐の葉は、爽波の心の目が見たものだった。眼前の桐の葉は、湖中の桐の葉に飛躍し、そのイメージは瞬間的に、心の中を過ぎったのである。『湯呑』(1981)所収。(中岡毅雄)


September 2092013

 まひるまの秋刀魚の長く焼かれあり

                           波多野爽波

たり前といえば、当たり前の光景だが、不思議な臨場感がある。その秘密はひとつは、上五の「まひるまの」にあろう。これが、夕餉の準備で、たとえば、「夕方の秋刀魚の長く焼かれあり」では、おもしろくもなんともない。「まひるま」という明るい時空で焼かれることによって、秋刀魚の存在感は増してくる。一句のもうひとつの妙味は、「長く」にある。秋刀魚が長い形をしていることは常識だが、常識をあえて、言葉にすることによって、対象物のありようを再認識させてくれる。『骰子』(1986)所収。(中岡毅雄)


September 2792013

 秋風に孤(ひと)つや妻のバスタオル

                           波多野爽波

風に妻のバスタオル、でも、寂しさは十分伝わるが、ここでは、あえて、「孤つ」と断っている。そのことによって、寂寥感は、いや増しに増す。一句に詠まれているのは、バスタオルであるが、単にバスタオルだけが描かれている句とは思えない。写生句を装いながら、作者の妻に対する日常の思いが、その背景に反映されているように思われる。そう考えれば、「孤つ」に籠められた心情も深い。『湯呑』(1981)所収。(中岡毅雄)


October 04102013

 ソース壜汚れて立てる野分かな

                           波多野爽波

食堂のテーブルに、汚れたソース壜が立っていることがある。外は野分の風が吹き荒れている。一見、単なる取り合わせのように見えて、汚れたソース壜は、野分の濁流や被害を彷彿させる。それでも、ソース壜は、じっと立っているのだ。家の内と外とを繋ぐものは、一本のソース壜でしかない。それでも、野分の情景をありありと感じさせてくれる。『一筆』(1990)所収。(中岡毅雄)


October 11102013

 吊したる箒に秋の星ちかく

                           波多野爽波

波は時折、極めてリリカルな句を作る、どこか軒先にでも吊してある箒のすぐ間近に秋の星が輝いていたのだ。箒と秋の星の取り合わせ。この句は、位置的な関係を無視できない。箒が吊されていなかったら(たとえば、地面に置いてあったら)、秋の星間近に見えることもなかっただろう。新鮮なアングルである。「秋の星ちかく」の「ちかく」は星の大きさは言っていないが、私には、はっきりと見える大きな星であるように思える。『湯呑』(1981)所収。(中岡毅雄)


October 18102013

 蓑虫にうすうす目鼻ありにけり

                           波多野爽波

波の代表作だが、そもそも、蓑虫に目鼻はあるのだろうか。ネットで調べて見ると、次のようにある。「実は蓑虫は子孫を残すためだけに羽化するため、ミノガに口はなく、餌を食べることはありません。一方、メスはいつまでたっても羽化しません。実は雌は完全に卵を産むためだけの成虫になるため、手足はおろか、目などの感覚器すらありません。」。意外な事実である。しかしながら、爽波が見たのが、雄の蓑虫ならば、目があっても不思議はなかろう。そんなことよりも、この句の詩的真実が訴えかけてくるのは、蓑虫という小動物への作者の親近感である。「うすうす目鼻ありにけり」という細かな観察眼は、確かに、蓑虫の目鼻を捉えた。そう読者に思わせるところがある。『湯呑』(1981)所収。(中岡毅雄)


October 25102013

 鳥威きらきらと家古りてゆく

                           波多野爽波

威は、かつては、空砲を撃ったりしていたそうだが、今は、もっぱら、赤と銀のテープが用いられている。風に靡いてきらきらしている鳥威。一句は、「鳥威きらきらと」で切れる。傍に、古くなった家が建っている。鳥威のきらめきが、家の古びた様子を一層際立たせている。家「古りてゆく」なので、時間の経過が感じられる。「古りにけり」では、この臨場感は表せない。『骰子』(1986)所収。(中岡毅雄)


November 01112013

 下るにはまだ早ければ秋の山

                           波多野爽波

気澄む秋の山。登ってから、しばらく時が過ぎたけれども、まだ下るには早い。もう少し、時を過ごしていよう。言葉としては描かれていないけれども、この秋の山、紅葉が見事なのかもしれない。いずれにせよ、心の中を過ぎった秋の山への親しみの思い。表現は簡明であるけれども、心に残る。これが、他の季節ならば、この情感は出てこない。「秋の山」ならではの一句。『鋪道の花』(1956)所収。(中岡毅雄)


November 08112013

 草紅葉縁側のすぐざらざらに

                           波多野爽波

側は、こまめに掃除せず放っておくと、頻繁に上がってくる人のこぼした砂や土埃で、すぐ、汚れてしまう。そのさまを、「ざらざらに」という触覚性リアルな言葉で表現した。日常の光景から、実存の深みまで感じさせてしまうのが、爽波俳句の特色である。荒涼とした手触りの世界の外界には、色づいた秋の草が生々しいまでに、その色彩を訴えかけてくる。『骰子』(1986)所収。(中岡毅雄)


November 15112013

 暗幕にぶら下がりゐるばつたかな

                           波多野爽波

っ黒な暗幕に、緑色の螇蚸がぶら下がっている。その一点の景がクローズアップされている。この螇蚸、決して、愛らしいモノとして描かれているのではない。むしろ、無韻の中、不気味な心象風景として表現されている。暗幕というモノと螇蚸というモノ。それぞれが、単独で描かれれば、別に、何ということはない。しかし、暗幕というシチュエーションのもと、そこに見出された一匹の螇蚸は、強烈な違和感を読者にもたらす。その違和感が、モノの実在感・存在感をありありと感じさせる。『骰子』(1986)所収。(中岡毅雄)


November 22112013

 リボンの娘手つなぎくるや崩れ簗

                           波多野爽波

ボンを結んだ娘が二人、手を繋ぎながらやってくる。どのような場所へ出てくるのかと思いきや、「崩れ簗(やな)」である。崩れ梁は、晩秋、漁期が過ぎて放置され、崩れ壊れた簗のこと。上五中七から「崩れ梁」への転換は、単に意外という領域を越えている。「春泥に押しあひながら来る娘 高野素十」という明るい句と比較してみても分かるが、下五「崩れ梁」の季語は、リボンの娘のイメージを崩れさせ、荒涼とした世界へと読み手を誘う。その詩的飛躍は、嗜虐趣味に近い気がする。『一筆』(1990)所収。(中岡毅雄)


November 29112013

 ぼんやりと晩秋蚕に燈しあり

                           波多野爽波

は、本来、春季であるが、晩夏から晩秋にかけて飼育されるものを「秋蚕」という。春と比べて、飼育日数も少ないが、繭の品質は劣るという。晩秋の蚕がぼんやりと照らされている。おそらく、裸電球であろう。照らされている蚕は、ただ、ひたすら桑の葉を食べているが、それを見つめている作者の意識は、朦朧と揺らぐような感覚の中へ誘われる。波多野爽波は、俳句において『農』のくらしを詠むことの重要性を、しばしば説いた。しかしながら、この句には、農のくらしへの親和感は微塵もうかがえない。『湯呑』(1981)所収。(中岡毅雄)


December 06122013

 招き猫水中の藻に冬がきて

                           波多野爽波

き猫は、前足で人を招く形をした猫の置物。商売繁盛の縁起物とされている。店頭に置かれてあったりするのを見ることが、よくある。招き猫は、本来、おめでたいものであるが、この句では、そのような既成概念が、招き猫から払拭されている。中七以降、「水中の藻に冬が来て」は、あたかも、招き猫が、冬を呼び寄せたかのようである。作者の感情は、負の方向に働いている。ユーモラスな招き猫が、不気味な存在であるかのように感じられる。『骰子』(1986)所収。(中岡毅雄)


December 13122013

 冬空や猫塀づたひどこへもゆける

                           波多野爽波

々とした冬空が広がっている。見ると、一匹の猫が塀伝いに歩いていた。そこから、作者の想像力は飛躍する。下五部分の「どこへもゆける」は七音の字余り。一句は、独特のしらべをなしている。「どこへもゆける」の表現には、主観が反映されており、解放感への羨望がある。背景が冬空であることが、一句のポイント。自由に移動することが許されている猫に対し、そのことが儘ならぬ自分への屈折した感情が、季語「冬空」から伝わって来る。『鋪道の花』(1956)所収。(中岡毅雄)


December 20122013

 天ぷらの海老の尾赤き冬の空

                           波多野爽波

ぷらの海老の尾が赤いというのは、普段、誰もが目にしている。常識である。しかし、その赤い海老の尾は、下五「冬の空」と配合されることによって、モノとしての不思議な実在感を感じさせるようになる。海老の天ぷらは、当然のことながら、家の中、あるいは食堂の中に置かれている光景であろう。それに対して、冬の空は、外の光景である。この配合には、大きな飛躍がある。それでいて、天ぷらの海老の赤い尾は、あたかも、それ自体を真っ青な冬空にかざしているかのように、視覚的に強い結びつきがある。これは、嘱目の句としては作りにくい。爽波俳句は、心象風景の印象をもたらすことが、しばしばあるが、これも、そうした一句であろう。『骰子』(1986)所収。(中岡毅雄)


December 27122013

 冬ざるるリボンかければ贈り物

                           波多野爽波

になって、何もかも荒れ果てて寂しいさまになっていくことを、「冬ざるる」という。冬ざれの景色の中、ある何かを包装して、リボンをかければ、贈り物になったという。何にリボンをかけたかは分からない。この中七以降の部分に、省略が効いているのである。冬のものさびしい光景は、「リボン」の一語で、明かりが点ったように、ぱっと明るくなる。そして、下五「贈り物」で心あたたまる世界になる。季語「冬ざるる」は、決して、中七以降を説明しようとはしない。それどころか、中七以降の展開の予測を遮断するように、正反対のイメージをもたらしている。『骰子』(1986)所収。(中岡毅雄)


January 0312014

 本あけしほどのまぶしさ花八ツ手

                           波多野爽波

ツ手は、初冬、小さくて細かい黄白色の花を鞠状にたくさんつける。その八ツ手の花に日が当たっているまぶしさを、本を開いたくらい…と喩えている。本を開けたほどのまぶしさというのだから、燦々と輝くようなまばゆさではない。ひっそりと、かすかな光を放っているのだ。そのかすかなまぶしさに、作者は惹きつけられた。『湯呑』(1981)所収。(中岡毅雄)


January 1012014

 鶴凍てて花のごときを糞(ま)りにけり

                           波多野爽波

鶴とは、冬の最中、鶴が片脚で立ち、凍りついたように身動きもしないさまをいう。動物園では、その姿をよく見ることができる。そんな凍鶴が少し動いたかと思うと、排泄したのである。通常ならば、汚いと感じるところだろうが、爽波は、逆に、美しさを感じて、「花のごとき」と喩えている。下五の表現は、「露の虫大いなるものをまりにけり」という阿波野青畝の句が、元になっているのだろう。一方、内容的には、中村草田男の「母が家近く便意もうれし花茶垣」という句が、少なからず影響を与えていると思う。爽波は、生前、草田男のこの句について、しばしば触れていた。『湯呑』(1981)所収。(中岡毅雄)


January 1712014

 福笑鉄橋斜め前方に

                           波多野爽波

笑の遊びをしているのは、室内。斜め前方に見えている鉄橋は、室外である。楽しげに福笑に興じている家族は、鉄橋に目を留めることもない。しかし、この句には、狂気に近い危うさが含まれている。上五「福笑」という和やかな季語は、中七「鉄橋」という無機質的な配合によって、揺すぶられる。しかも、その鉄橋は、「斜め前方」に見えている。この感覚世界は、倒錯感に近い揺らぎを読み手にもたらす。『骰子』(1986)所収。(中岡毅雄)


January 2412014

 畳まれて巌のごとし大屏風

                           波多野爽波

段、屏風というのは広げて用いるもの。しかし、作者は、畳まれている屏風を詠んでいる。「巌のごとし」というのは飛躍した比喩であるけれども、大きな屏風の質感をよく感じさせる。私は、この句が出された句会に出席していた記憶があるが、同時作に「井戸の辺をすり抜け屏風運ばるる」という作品があった。爽波は、句会の後、「頭の中で、『屏風』を思い浮かべていると、その映像が自然に動き始め、さまざまな情景が浮かんでくる」と語っていた。『骰子』(1986)所収。(中岡毅雄)


January 3112014

 雪うさぎ柔かづくり固づくり

                           波多野爽波

うさぎとは、盆の上に雪の塊をのせ、目は南天の赤い実をつけ、兎の形にしたもの。その雪うさぎに、柔らかく固めたものと、かたく固めたものとがあるというのだ。雪うさぎを実際に作っている触覚が蘇ってくる。一句は巧まず、イメージを素直に詠んでいる。爽波には、シャープでシュールな感覚の句が多いが、こんな繊細でメルヘンチックな句もあるのだ。『骰子』(1986)所収。(中岡毅雄)


February 0722014

 手が冷た頬に当てれば頬冷た

                           波多野爽波

りつくように手が寒い。その手を頬に当ててみると、頬の方が冷たかったという驚き。頬より手の方が、寒さに対し敏感なのだろう。この句、主体を自分と考えることもできるが、「手」が冷たい人物と、「頬」が冷たい人物は、別人であると解釈することもできよう。「手が冷たい」と言ったら、傍にいた人が、「私のほっぺたに触ってごらん」と答えた。触ってみると、自分の手より、相手の頬が冷たかったのである。いずれにせよ、この句、口語調で、メルヘンチックな趣がある。『一筆』(1990)所収。(中岡毅雄)


February 1422014

 脱いである褞袍いくたび踏まれけり

                           波多野爽波

袍(どてら)は、厚く綿を入れた防寒のための日本式の上着。何か用があって、脱いだ時、きちんと衣紋掛けにかけずに、その辺りに、放っておいたのである。それも、ちょうど、人が通る場所だったので、何回も踏まれてしまった。滑稽味のある作品である。爽波には、〈だから褞袍は嫌よ家ぢゆうをぶらぶら〉(『波多野爽波全集』第二巻収録)という句もある。『一筆』(1990)所収。(中岡毅雄)


February 2122014

 夜着いて燈はみな春や嵐山

                           波多野爽波

事の都合だろうか。目的地に到着したら、夜だった。あちこちに明かりが点っている。その明かりは、みな、春なのだという感慨。無事に着いた安堵感をこころにしながら、灯しはどれもみな、キラキラと燦めいて見える。「や」の切字は、思いの深さを語っている。下五「嵐山」ではじめて到着地点が明かされるが、作者の京都への思い入れは格別。「炬燵出て歩いてゆけば嵐山」という軽妙洒脱な句もある。(中岡毅雄)


February 2822014

 春暁のダイヤモンドでも落ちてをらぬか

                           波多野爽波

語調である。句意は明快。春暁の道に、ダイヤモンドでも落ちていないかという問いかけである。もちろん、落ちているはずはないのであるが、読後、春暁のもと、ダイヤモンドが輝いている映像が、瞬時、心を過ぎる。その理由は、「春暁」「ダイヤモンド」の配合が美しいこと。そのイメージに「でも」で揺らぎを与え、最後の「をらぬか」で、再度、揺さぶりをかけているところにある。587の破調が一句に緊張感をもたらしている点も、見逃すことができない。『鋪道の花』(1956)所収。(中岡毅雄)


March 0732014

 鳥の巣に鳥が入つてゆくところ

                           波多野爽波

の巣は、春の季語。鳥がちょうど、巣に入っていく瞬間を捉えた。通常ならば、「鳥の巣に鳥が入つてゆきにけり」としてしまいがち。しかし、それでは、単なる事実の報告になってしまって、面白味がなくなってしまう。下五「ゆくところ」の「ところ」という把握と描写に、的確な写生の醍醐味を感じる。『鋪道の花』(昭和31年)所収。(中岡毅雄)


March 1432014

 吾を容れて羽ばたくごとし春の山

                           波多野爽波

の山は笑うというが、温かなイメージがある。山に登っていくと、まるで、山が羽ばたいているような気がした。この句には、二つの鑑賞のポイントがある。一つ目のポイントは、上五「吾を容れて」という表現。「吾登り」などとしてしまうと、一句のイメージが損なわれてしまう。「容れて」の部分から、山に抱擁されているかのごとき臨場感が生まれてくる。二つ目のポイントは、「羽ばたくごとし」という飛躍した比喩表現にある。春の山が巨大な鳥であるかのように感じさせる。『湯呑』(昭和56年)所収。(中岡毅雄)


March 2132014

 骰子の一の目赤し春の山

                           波多野爽波

多野爽波は、取り合わせの重要性について、生前、しばしば説いていた。この句は、配合の代表的な佳句。確かに、骰子の目は、一だけ赤い。ただ、そんな些事を俳句にしようなどと、一体、誰が考えたであろう。その部分に、まず、新しさを感じさせる。一方、骰子に配合されるものは、「春の山」である。家の中、骰子の目という小さなモノと、家の外、春の山という拡がりのある空間が結びつけられている。この季語は、他のことばに置き換えることが出来ない。一句は、明るく、めでたさを伝えてくる。『骰子』(昭和61年)所収。(中岡毅雄)


March 2832014

 こつぽりの高さや地虫出でにけり

                           波多野爽波

っぽりは、裏をくりぬいてある下駄。多く、舞妓や女児が用いる。爽波は、若い頃、祇園で蕩尽していたので、舞妓のイメージで作ったのではあるまいか。こっぽりには、少々、高さがある。その高さまで、冬籠もりをしていた地虫が、出て来たというのである。実際に、地虫がこっぽりの高さまで出たというのは、考えにくい。爽波独特のイマジネーションによる産物だと思う。この句、「こつぽり」の語が触発する艶やかなイメージと、「地虫出でにけり」のユーモラスな感覚が重なり合って、瀟洒な一句となっている。『骰子』(昭和61年)所収。(中岡毅雄)


April 0442014

 春没日マウンドの高み踏みて帰る

                           波多野爽波

ウンドは、上から見ると円形で、土を盛って周囲のグラウンドよりも高くなっている。真っ赤な夕日を浴びながら、マウンドを踏んで、帰路についている。この句、下五の「踏みて帰る」が六音の字余りになり、緊迫した調べになっている。あと、「タカミフミテ」の部分、「ミ」の音が反復され、一句の後半、バウンドするような感覚上の効果がある。韻律の上から、帰宅する心躍りが伝わって来る。『湯呑』(昭和56年)所収。(中岡毅雄)


April 1142014

 家ぢゆうの声聞き分けて椿かな

                           波多野爽波

の声は妻の声。この声は長男の声。この声は次男の声。家族の誰かを、声だけで判断している。声だけ聞けば、誰だか分かるのだ。庭には、椿の花が開いている。家中の声を聞き分けるという行為と、椿との関連性を説明することは難しい。ただ、家の内と家の外という空間のバランスが取れていることは確かである。あと、あえて言えば、あの真紅の花びらを開いている椿自体が、声を聞き分けているという幻覚を、瞬時、感じさせてくれる。もちろん、そうした解釈は誤りであり、椿はただ咲いているだけなのだが、幻覚の余韻が漂っている。『骰子』(昭和61年)所収。(中岡毅雄)


April 1842014

 花満ちて餡がころりと抜け落ちぬ

                           波多野爽波

の句は、おそらく中村草田男の「厚餡割ればシクと音して雲の峰」が心の中にあったのであろう。しかしながら、一句は草田男の模倣ではなく、爽波独自の世界を構築している。辺り一面に、咲き満ちた桜の花。饅頭を割ったところ、皮と餡の間に隙間があったのであろう。餡がそのまま、抜け落ちてしまった。「花満ちて」が雅の世界であり、一方、「餡」の方は俗の世界である。餡が饅頭から抜け落ちてしまったというのは、日常生活の中のトリビアリズムであるが、そのような世界を詠うことは、爽波は得意であった。『骰子』(昭和61年)所収。(中岡毅雄)


April 2542014

 やどかりの中をやどかり走り抜け

                           波多野爽波

どかりは、巻貝の貝殻に体を収め、貝殻を背負って生活する。やどかりが何匹かいる中、一匹だけ群れの中を走り抜けたというのだ。単純な写生句のようにも見えるが、作者の細かな観察眼が光っている。やどかりという愛らしい小動物が動く様を思い浮かべてみると、愛らしさと同時に、そこはかとないオカシミが伝わって来る。『一筆』(平成2年)所収。(中岡毅雄)


May 0252014

 大根の花や青空色足らぬ

                           波多野爽波

根は種を採るため畑に残したものに、春、十字状の小花をつける。白色のものや紫がかったものもある。青空との比較から考えると、白色の花の方がイメージしやすい。本来は、花の白と空の青で明確な対照を描くはずだが、透き通るような青空ではなく、いくぶん、澱んでいるのだ。下五では、そのような情景を「色足らぬ」といささか主観的に表し、残念な気持ちを表白している。『湯呑』(昭和56年)所収。(中岡毅雄)


May 0952014

 新緑や人の少なき貴船村

                           波多野爽波

船は京都の地名。貴船山と近隣の鞍馬山に挟まれた渓谷には、料理旅館が建ち並ぶ。夏には貴船川沿いに川床料理が供され、納涼客の客足が伸びる。爽波のことである。貴船での川床遊びを体験したこともあったに違いない。ところが、時期を違えて、夏の初め、新緑の頃、訪れた貴船は閑散としていた。人の少ない貴船村とは、意外な事実。ことばの抑制が効いている佳句である。『鋪道の花』(昭和31年)所収。(中岡毅雄)


May 1652014

 青あらし電流強く流れをり

                           波多野爽波

嵐は、青葉の茂ることに吹く強い風。電線が風に揺られるくらいの風だったのだろう。しかしながら、爽波は電線の描写などはしない。目に見えない「電流」を描写する。この句「青嵐/電流」までで、すでにひとつの情景は描かれてしまっている。それに「強く流れをり」とダメ押しをする。「青嵐」と「電流」がぶつかり合って、火花を散らし合うような激しさを持った一句である。『一筆』(平成2年)所収。(中岡毅雄)


May 2352014

 ちぎり捨てあり山吹の花と葉と

                           波多野爽波

祇に「山吹や葉に花に葉に花に葉に」の句がある。山吹の花が咲いている様子を描写したものだ。爽波の句は、太祇の句を思い出させるが、情景は全く異なっている。爽波の句は山吹の花と葉が、ちぎり捨ててある情景を詠っている。意味的には、「山吹の花と葉とちぎり捨てあり」だが、定型に収まるように、倒置法を用いている。前半の「ちぎり捨てあり」で一呼吸休止して、「山吹の花と葉」がおもむろに提示される。爽波写生句の代表作である。『湯呑』(昭和56年)所収。(中岡毅雄)


May 3052014

 大空は微笑みてあり草矢放つ

                           波多野爽波

胆な擬人法である。「大空は微笑みてあり」だから、晴れ渡った空だったのだろう。あと、草矢遊びに興じている子供の心情まで、喩えているように思う。「草矢」は芒や葦などの葉を縦に裂き、指に挟んで、飛ばすこと。高さや飛んだ距離を競ったりする。この句、下五の部分が、「クサヤハナツ」と一音字余りになっている。その一音の時間の流れが、飛んでいく草矢の時間を彷彿させる。『鋪道の花』(昭和31年)所収。(中岡毅雄)


June 0662014

 美しやさくらんぼうも夜の雨も

                           波多野爽波

置法である。本来ならば、「さくらんぼうも夜の雨も美しや」となるところである。爽波は、まず、「美しや」と主観を強調する。さくらんぼのつやつやした美しさはもちろんのことだが、夜の雨が美しいというのは、個性的な感覚を感じさせる。土砂降りではなく、しとしとと、降っていたのであろう。「……も……も」の繰り返し表現が、ぽたぽた落ちる雨だれのようにひびいてくる。『湯呑』(昭和56年)所収。(中岡毅雄)


June 1362014

 白靴の中なる金の文字が見ゆ

                           波多野爽波

事になるが、生前、八十代の阿波野青畝が、祝賀会に白靴を履いて来ていたのを思いだす。白靴は汚れやすいので、通勤などには不向きである。しかしながら、夏になって、いかにも涼しげな白靴を履いていると、お洒落な感じがする。そんな白靴に金の文字が入っていたのが目にとまった。金の文字は、白靴を更に瀟洒なものに見せている。作者の審美眼を感じさせる作品である。『鋪道の花』(昭和31年)所収。(中岡毅雄)


June 2062014

 妻ときて風の螢の迅きばかり

                           波多野爽波

波先生に師事していたころ、ご家族の話をうかがうことは少なかった。ただ、ある時、二次会の飲み会の席上で、奥さまの着物の着こなしが、お上手であることを、嬉しそうに話されていたことを思い出す。掲句、奥さまと歩いてきたら、風に乗った蛍が、速く飛んでいたという情景である。下五「ばかり」に、作者の心情が託されている。蛍と言えば、ゆらゆらと、ゆっくり飛び交っているのが、情緒あるもの。それが、風に流されて、速く飛んでいるのでは、情緒がない。意外性の中に、淡い失望を感じさせる。『湯呑』(昭和56年)所収。(中岡毅雄)


June 2762014

 帚木が帚木を押し傾けて

                           波多野爽波

の句に対しては、爽波はよく語っていた。同時作「帚木のつぶさに枝の岐れをり」と比較して、「『つぶさに枝に岐れをり』の方は、他の人でも詠めるかも知れないが、『押し傾けて』の方は、なかなか詠めないでしょう」と。「つぶさに」の方は、細かい観察眼がうかがえるが、「押し傾けて」の方は、帚木の存在そのものの核に迫っていく迫力がある。「帚木に影といふものありにけり高浜虚子」のように、従来の帚木のイメージは、はかなげなものであった。それを爽波は、力強い存在に詠んでみせた。『湯呑』(昭和56年)所収。(中岡毅雄)


July 0472014

 桐の木の向う桐の木昼寝村

                           波多野爽波

の木というと高貴なイメージがある。桐の木の向こう側にも桐の木が生えている。この場合、桐の木が二本だけというのは考えにくい。それ以外にも、何本か生えているのであろう。折しも、時は、昼寝の時間。村は静まりかえっている。秋櫻子の「高嶺星蚕飼の村は寝しづまり」と比較してみても面白い。現実に存在する村ではなく、メルヘンチックな風景画のように感じさせる。『湯呑』(昭和56年)所収。(中岡毅雄)


July 1172014

 来てすぐに気に入つてゐる避暑地かな

                           波多野爽波

者は避暑地がどんな場所であるか、一切、説明していない。描かれているのは、やってきた避暑地を気に入ったという心情だけである。考えてみれば、避暑地にやって来たら、気に入るか気に入らないか、選択肢は二者択一である。当たり前のことなのだが、読後は新鮮。「来てすぐに」の「すぐに」が微妙な味わいを出し、まるで子供のような無邪気な喜びようである。作者本人は意図していなかったかもしれない俳味が、この一句にはある。『骰子』(昭和61年)所収。(中岡毅雄)


July 1872014

 巻尺を伸ばしてゆけば源五郎

                           波多野爽波

事現場だろうか。地面に巻尺を当てて伸ばしていったら、近くの池に源五郎がいたというのである。この句、描かれているものは、「巻尺」と「源五郎」だけだ。省略の効いた二物配合の句である。中七の「伸ばしてゆけば」は、動作の表現だけではなく、巻尺を伸ばしている時間をも感じさせる。それにしても、「巻尺」から「源五郎」へ飛躍するイマジネーションの柔軟なこと。意外性に溢れつつ、リアリティを失っていない作品である。『骰子』(昭和61年)所収。(中岡毅雄)


July 2572014

 老人よどこも網戸にしてひとり

                           波多野爽波

は老いる。必ず、老いる。そして、老いはしばしば孤独を伴うものである。配偶者が亡くなり、子供も訪ねてくることなく、日々、一人で生活せざるを得ない場合もある。爽波がここで描いた老人も、また、ひとりである。「老人よ」の呼びかけが、作者の老人への共感を表している。どこも、網戸にしてというのは、涼しげなイメージを浮かべるかも知れないが、ここでは、窓やガラス戸など、家の内と外とを隔てている境界を出来る限り取り外し、網戸によって外界に繋がろうとする、老人の意識下の願望が感じられる。そして、下五の「ひとり」という呟きのような結び。爽波の句で、「老い」の心境を詠んだ句は、ほとんど見られない。それだけに、心に残る一句である。『一筆』(平成2年)所収。(中岡毅雄)


June 0462015

 約束はただのあじさいだったのに

                           なかはられいこ

陽花の花がだいぶ色付いてきた。紫陽花は家の戸口に裏庭に何気なく植えられて雨のしとしと降る時期に花期を迎える。薔薇のような華やかさはないが、親しみやすい普段着の花だ。俳句の季語としての紫陽花は変化する色や生活の一風景として詠まれることが多い。「紫陽花や家居の腕に腕時計」波多野爽波、「紫陽花のあさぎのままの月夜かな」鈴木花蓑。掲載句では約束の内容はわからないが「ただの」という表現に紫陽花の性質が強調されている。庭の紫陽花を切って新聞紙にくるんで持ってくる約束がお金を出してあつらえた豪華な花束を手渡されたのか。読み手は「あじさい」をめぐる「約束」に想像をめぐらすことになる。紫陽花を捉える角度が俳句と川柳では違う。掲載句は川柳、作者は川柳作家。『脱衣場のアリス』(2001)所収。(三宅やよい)




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