January 291998
女番長よき妻となり軒氷柱
大木あまり
世間にはよくある話だ。派手好みで男まさりで、その上に何事につけても反抗的ときている。将来ロクなものにはならないと、近所でも折り紙つきの娘が、結婚と同時にぴたりと大人しくなってしまった。噂では、人が変わったように「いい奥さん」になっているという。作者も、娘の過去は知っているので気がかりだった。で、ある日、たまたまその娘の嫁ぎ先の家の前を通りかかると、小さな軒先に氷柱(つらら)がさがっていた。もちろん何の変哲もない氷柱なのだが、その変哲の無さが娘の「よき妻」ぶりを象徴していると思われたのである。ホッとした気分の作者は、そこで微笑を浮かべたかもしれない。よくある話には違いないが、軒先のただの氷柱に「平凡であることの幸福」を見た作者の感受性は、さすがに柔らかく素晴らしいと思えた。『雲の塔』(1993)所収。(清水哲男)
January 281998
鉢うへの松にかぶせる頭巾かな
住田素鏡
素鏡は、江戸期信州長沼の人。一茶門。富裕な百姓で、一茶はしばしば厄介になっていたようだ。なんということもない句だが、大切な松の木に頭巾をかぶせてやるという優しさに、一茶につながる心根が感じられる。実はこの句は、同門であった松井松宇の還暦賀集『杖の竹』に寄せたもので、句の「松」には二重の意味、つまり挨拶が込められている。頭巾といえば、私の世代では命からがらの時のための「防空頭巾」だが、江戸期には防寒用として広く用いられ、お洒落感覚でかぶった人も多かったという。なかには覆面に近いものもあり、幕府はたびたび禁じている。ところで、前書の素鏡の頭巾論はこうだ。「頭上より背まで能覆ふべし。凩の強きも能ふせぐべし。頬は少し出れど、つらの皮の本千枚ばりならバ構ひなかるべし」と。この茶目っ気も一茶に通じている。栗生純夫編『一茶十哲句集』(1942)所収。(清水哲男)
January 271998
練炭の灰に雨降る昼屋台
北野平八
なんとも侘びしい光景。昨夜の屋台営業の名残りである練炭(れんたん)の灰に、冷たい雨が降りかかっている。どうやら今夜まで、この雨はつづきそうだ。こんな侘びしい気分を的確に捉えた、なんとも素敵な北野平八の才気。「上手いなア」と、思わずもつぶやかされてしまう。練炭の灰は、見た目よりもよほど頑丈だから、ちょっとやそっとでは崩れたりはしない。その感覚が理解できないと、この句の味もわからないだろう。例によって余談になるが、私の職場である放送局には若い人が多い。つい最近、練炭のことを聞いてみたら、やはりわかった人は少なかった。タドンと間違える人はまだよいほうで、何に使うのか見当もつかない若者もいた。無理もない。もはや、都会の生活の場で練炭を使うことなどないからである。そういえば昨年の暮れ近く、新聞に北京で練炭を売る少年の写真が載っていた。まだ日常的に使っている国もあるというわけだ。もう一度、赤く燃える練炭ストーブに会ってみたい。『北野平八句集』(1987)所収。(清水哲男)
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