旧正月を知らずに香港に行ったことがある。特に元日はどこも休みで大いにまいった。




1998ソスN1ソスソス28ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

January 2811998

 鉢うへの松にかぶせる頭巾かな

                           住田素鏡

鏡は、江戸期信州長沼の人。一茶門。富裕な百姓で、一茶はしばしば厄介になっていたようだ。なんということもない句だが、大切な松の木に頭巾をかぶせてやるという優しさに、一茶につながる心根が感じられる。実はこの句は、同門であった松井松宇の還暦賀集『杖の竹』に寄せたもので、句の「松」には二重の意味、つまり挨拶が込められている。頭巾といえば、私の世代では命からがらの時のための「防空頭巾」だが、江戸期には防寒用として広く用いられ、お洒落感覚でかぶった人も多かったという。なかには覆面に近いものもあり、幕府はたびたび禁じている。ところで、前書の素鏡の頭巾論はこうだ。「頭上より背まで能覆ふべし。凩の強きも能ふせぐべし。頬は少し出れど、つらの皮の本千枚ばりならバ構ひなかるべし」と。この茶目っ気も一茶に通じている。栗生純夫編『一茶十哲句集』(1942)所収。(清水哲男)


January 2711998

 練炭の灰に雨降る昼屋台

                           北野平八

んとも侘びしい光景。昨夜の屋台営業の名残りである練炭(れんたん)の灰に、冷たい雨が降りかかっている。どうやら今夜まで、この雨はつづきそうだ。こんな侘びしい気分を的確に捉えた、なんとも素敵な北野平八の才気。「上手いなア」と、思わずもつぶやかされてしまう。練炭の灰は、見た目よりもよほど頑丈だから、ちょっとやそっとでは崩れたりはしない。その感覚が理解できないと、この句の味もわからないだろう。例によって余談になるが、私の職場である放送局には若い人が多い。つい最近、練炭のことを聞いてみたら、やはりわかった人は少なかった。タドンと間違える人はまだよいほうで、何に使うのか見当もつかない若者もいた。無理もない。もはや、都会の生活の場で練炭を使うことなどないからである。そういえば昨年の暮れ近く、新聞に北京で練炭を売る少年の写真が載っていた。まだ日常的に使っている国もあるというわけだ。もう一度、赤く燃える練炭ストーブに会ってみたい。『北野平八句集』(1987)所収。(清水哲男)


January 2611998

 天地無用のビルにて蟹が茹で上がる

                           夏石番矢

物の外箱などに書いてある「天地無用」という言葉は、苦手だ。どうも解せない。「上下をひっくり返さないように」という意味なのだが、つい反射的に逆の意味に取ってしまう。「無用」というのだから、その「必要がない」、つまり「どっちでもよい」と思ってしまうのだ。しかし、この場合は「落書き無用」などと同じように、「どっちでもよくはない」ということである。そりゃ、そうだ。ビルを逆様にされたら、たまったものじゃない。でも、ビルなんぞというものは荷物と同じで、逆様にしてもどうってことはない形状をしている。なべて人工の極は、引力を問題にしないような不遜な姿として現出してくるようだ。そんなビルの小料理屋で、いましも真っ赤にこれまた「天地無用」の姿の蟹が茹で上がった。何やってんだろうねえ、俺たちは、……という苦笑の図。苦笑の根元には、向けどころのない怒りもある。俳句で「蟹」は夏の季語だが、当サイトでは「蟹茹でる」という冬の季語を発明しておく。『猟常記』(1983)所収。(清水哲男)




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