日本発金融恐慌はないと橋本総理。つまり、その可能性は十分にありということだ。




1998ソスN1ソスソス13ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

January 1311998

 湯豆腐やいのちのはてのうすあかり

                           久保田万太郎

逝する五週間前に、銀座百店会の忘年句会で書かれた句。したがって、辞世の気持ちが詠みこまれているとする解釈が多い。万太郎は妻にも子にも先立たれており、孤独な晩年であった。そういうことを知らなくても、この句には人生の寂寥感が漂っている。読者としても、年齢を重ねるにつれて、だんだん淋しさが色濃く伝わってくる句だ。読者の感覚のなかで、この句はじわじわと成長しつづけるのである。豆腐の白、湯気の白。その微妙な色合いの果てに、死後のうすあかりが見えてくる……。湯豆腐を前にすると、いつもこの句を思いだす。そのたびに、自分の年輪に思いがいたる。けだし「名句」というべきであろう。『流寓抄以後』(1963)所収。(清水哲男)


January 1211998

 冬の浜骸は鴉のみならず

                           森田 峠

涼たる冬の浜辺で、鴉(からす)が死んでいる。身体が黒いので、すぐにそれとわかるのである。しかしよく見ると、死んでいるのは鴉だけではなく、名も知らぬ魚や虫や小動物の骸(むくろ)も点々としている。眼前の情景はこれだけだが、この句はもっと大きなスケールを持つ。すなわち、太古からの冬の浜辺の数えきれないほどの死骸のイメージに読者を誘うのであり、また悠久の未来のそれをも連想させるからだ。このとき、おびただしい人間の骸も見えてくるし、みずからの屍体が、いつの日かここにあっても不思議ではないと思えてくるほどだ。このように、俳句という表現装置は、時空間系列を自在に行き来できる機能をそなえているのでもある。ところで、鴉は昔、神意を伝える霊鳥と言われていた。そんな視点から読んでみると、ますます句の世界は奥深くなる。『避暑散歩』(1973)所収。(清水哲男)


January 1111998

 傍観す女手に鏡餅割るを

                           西東三鬼

開きは、一月十一日にする地方が多い。鏡餅は刃物で切ることを忌むことから、槌などで割る。ただし「割る」は忌み詞なので、「開く」としてきた。結婚披露宴などの目出度い席で「終る」と言わないで「お開きにする」と言うのと同じである。作者は、こうした祝い事にはさしたる関心もなく、また面倒でもあるので、女性(たち)がテキパキと事を運ぶ姿をぼんやりと見ているばかり……。そして、こういうことはなにも鏡開きの場合にかぎらない。作者としては何かの折りにはしばしば顰蹙をかってきたわけで、句にはいくばくかの自嘲の色合いも含まれている。最近は、鏡餅を食べずに捨ててしまう家庭が増えたと、新聞に出ていた。理由の第一は「固いので割るのが面倒」というものであり、いまでは三鬼みたいな人が多いようだ。もっとも、この記事のネタ元は、鏡餅を小さなプラスチック製の容器に収めて売りだしたメーカーのアンケート結果からだったけれど……。(清水哲男)




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