「Voice」2月号の坪田知己「『電子新聞』という幻影」が、問題点をやさしく解説。




1998ソスN1ソスソス11ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

January 1111998

 傍観す女手に鏡餅割るを

                           西東三鬼

開きは、一月十一日にする地方が多い。鏡餅は刃物で切ることを忌むことから、槌などで割る。ただし「割る」は忌み詞なので、「開く」としてきた。結婚披露宴などの目出度い席で「終る」と言わないで「お開きにする」と言うのと同じである。作者は、こうした祝い事にはさしたる関心もなく、また面倒でもあるので、女性(たち)がテキパキと事を運ぶ姿をぼんやりと見ているばかり……。そして、こういうことはなにも鏡開きの場合にかぎらない。作者としては何かの折りにはしばしば顰蹙をかってきたわけで、句にはいくばくかの自嘲の色合いも含まれている。最近は、鏡餅を食べずに捨ててしまう家庭が増えたと、新聞に出ていた。理由の第一は「固いので割るのが面倒」というものであり、いまでは三鬼みたいな人が多いようだ。もっとも、この記事のネタ元は、鏡餅を小さなプラスチック製の容器に収めて売りだしたメーカーのアンケート結果からだったけれど……。(清水哲男)


January 1011998

 風邪声で亭主留守です分りませぬ

                           岡田史乃

かを至急に知りたくて、作者は知り合いの男性に電話をかけたのだろう。ところが、電話口に出てきたのは彼の奥さんで、応対はきわめてつっけんどんだった。どうやら、無愛想な相手は風邪を引いているらしい。途端に、作者も不愉快な気分になってしまった。この句から読み取れるのは、風邪声をダシにしての女性同士の一瞬の確執である。電話がかかってきた側は、風邪を引いているという理由におぶさって冷たい態度に出ているわけだが、かけた作者としてはたかが風邪ごときで大げさなことだと腹を立てている。お互いが彼をめぐって、ちょっとした鞘あての格好になってしまったのだ。たぶん、日頃から好感を持てないでいる同士なのだろう。電話はときに暴力にもなるが、ときには故なき暴力を受けているフリを、相手にアピールできるメディアでもある。作者は敏感に、そこに着目している。『浮いてこい』(1983)所収。(清水哲男)


January 0911998

 冬木立ばたりと人が倒れたり

                           柴崎昭雄

景かもしれないが、私は想像した光景と読んだ。そのほうが面白い。枯れ木のつづく道を歩いていた人が、突然倒れてしまう。滑って転んだというようなことではなくて、急にワケもなく倒れてしまったのだ。しかも、音もなく……。「ばたり」は音ではなく、あっけなく倒れる様子を表現している。そして、この人は永遠に起き上がることもなくて、あたりはまたしんと静まりかえった冬木立だけの世界である。トポールの白と黒の絵を知っている人なら、たとえばあの絵が動いてこうなったのだと思うと、私の解釈にさして無理のないことを納得していただけるかもしれない。滑稽と無気味が共存しているユニークな発想だ。作者の詩的出発は川柳だから、それが冬木立でありうべき光景をとらえるのに効果的な力を発揮しているのだと見た。作者は、十八歳のときのバイクによる事故が原因で車椅子生活をつづけている。青森県在住。『木馬館』(1995)所収。(清水哲男)




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