街の人の流れがいつもとは違う。大掃除のため追いだされた(?)老人の姿もある。




1997ソスN12ソスソス30ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

December 30121997

 冬波の百千万の皆起伏

                           高野素十

この海だろうか。漢字の多用効果で、いかにも冬の海らしい荒涼たる雰囲気が力強く伝わってくる。視覚的に構成された句だ。句意は説明するまでもないが、歳末に読むと、自分も含めた人間の来し方が百千万の波の起伏に象徴されているようで、しばし感慨にふけることになる。高野素十は医学の人で、俳壇では昭和初期に4S (秋桜子、誓子、青畝、素十)とうたわれた客観写生俳句の旗手であった。虚子は素十について、「磁石が鉄を吸う如く自然は素十君の胸に飛び込んでくる。文字の無駄がなく、筆意は確かである。句に光がある。これは人としての光であろう」と書いている。『雪片』(1952)所収。(清水哲男)


December 29121997

 高瀬川木屋町の煤流れけり

                           高浜虚子

ごと賑わう京都の木屋町の煤払いで出た煤が、高瀬川に流れ込んで濁っているという光景。しかし、汚くて見てはいられないというのではなく、作者はそこに歳末ならではの情緒を感じ取っている。いまではこんな光景も見られなくなったが、昔は大掃除の煤やらゴミやらを平気で川に流していた。それが当たり前だった。川は町の浄化に役立つ、いわば「装置」でもあったわけだ。それがいつの間にやら「装置」を酷使し過ぎてしまった結果、お互いの共存的バランス関係は大きく崩れ、川は人間により守られるべき聖域として位置づけられ、ためにすっかり精気を失ってしまった。もはや、昔のような川の位置づけでの句作は不可能となった以上、逆にいま書きとめておく価値のある作品だろう。(清水哲男)


December 28121997

 師走妻風呂敷にある稜と丸み

                           香西照雄

は「かど」と読ませる。句意は明瞭。師走の町から、妻が風呂敷包みを抱えるようにして帰ってきた。正月のためのこまごました物を買ってきたので、包みのあちこちに角張っているところと丸みを帯びているところが見える。師走の買い物の中身のあれこれを言わずに、風呂敷包みの形状から想像させる手法が面白い。ところで「師走妻」とは年越しの用意に忙しい妻のことだろうと、誰にも見当はつくのであるが、いかにも「腸詰俳句」といわれる草田男門らしい独特の表現方法だ。「萬緑」系の句は内容先行型で、このように、いささか描写的な優美さには欠ける場合があるのである。それこそ、この句の風呂敷包みさながらに、ゴツゴツしてしまう。それを好まない人もいるけれど、少なくとも若年の私には、それゆえに草田男一門の句に夢中になれたのだった。(清水哲男)




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