各紙に嵯峨信之氏訃報。なにしろ芥川の葬儀で受付をやった人だ。ご長命だった。




1997ソスN12ソスソス29ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

December 29121997

 高瀬川木屋町の煤流れけり

                           高浜虚子

ごと賑わう京都の木屋町の煤払いで出た煤が、高瀬川に流れ込んで濁っているという光景。しかし、汚くて見てはいられないというのではなく、作者はそこに歳末ならではの情緒を感じ取っている。いまではこんな光景も見られなくなったが、昔は大掃除の煤やらゴミやらを平気で川に流していた。それが当たり前だった。川は町の浄化に役立つ、いわば「装置」でもあったわけだ。それがいつの間にやら「装置」を酷使し過ぎてしまった結果、お互いの共存的バランス関係は大きく崩れ、川は人間により守られるべき聖域として位置づけられ、ためにすっかり精気を失ってしまった。もはや、昔のような川の位置づけでの句作は不可能となった以上、逆にいま書きとめておく価値のある作品だろう。(清水哲男)


December 28121997

 師走妻風呂敷にある稜と丸み

                           香西照雄

は「かど」と読ませる。句意は明瞭。師走の町から、妻が風呂敷包みを抱えるようにして帰ってきた。正月のためのこまごました物を買ってきたので、包みのあちこちに角張っているところと丸みを帯びているところが見える。師走の買い物の中身のあれこれを言わずに、風呂敷包みの形状から想像させる手法が面白い。ところで「師走妻」とは年越しの用意に忙しい妻のことだろうと、誰にも見当はつくのであるが、いかにも「腸詰俳句」といわれる草田男門らしい独特の表現方法だ。「萬緑」系の句は内容先行型で、このように、いささか描写的な優美さには欠ける場合があるのである。それこそ、この句の風呂敷包みさながらに、ゴツゴツしてしまう。それを好まない人もいるけれど、少なくとも若年の私には、それゆえに草田男一門の句に夢中になれたのだった。(清水哲男)


December 27121997

 輪飾のすいとさみしき買ひにけり

                           皆吉爽雨

角などのちょっとした空き地に、仮設された飾売の店が登場すると、歳末気分は一段と盛り上がる。クリスマス・セールでも同じことだが、私たちの生活感覚は、商売人の感覚によって染め上げられるところも大きい。飾売はたいてい盛大に焚火をし、大声で景気をつけている。買うつもりもないのだけれど、なんとなく吸い寄せられてしまうときがある。作者も、たぶんそんな気分だったのだろう。輪飾にしても注連縄にしても、清楚な美しさはあるが、華美なものではない。見ているうちに、歳末特有の感傷も手伝って、それらがふっと(すいと)淋しいものにも見えてくる。それで、買う気になったというわけだが、年の瀬の人の心の微妙な動きをとらえた名句だと言えよう。余談だが、中学時代に投稿していた「毎日中学生新聞」の俳句の選者が爽雨だった。毎週のように採ってもらったことを思い出す。現代俳人の皆吉司は、爽雨の実孫にあたる。はるばると来つるものかな。(清水哲男)




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