本年最後の週末。昼間は原稿を書き夜は出かけるというスパイのような(?)生活。




1997ソスN12ソスソス27ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

December 27121997

 輪飾のすいとさみしき買ひにけり

                           皆吉爽雨

角などのちょっとした空き地に、仮設された飾売の店が登場すると、歳末気分は一段と盛り上がる。クリスマス・セールでも同じことだが、私たちの生活感覚は、商売人の感覚によって染め上げられるところも大きい。飾売はたいてい盛大に焚火をし、大声で景気をつけている。買うつもりもないのだけれど、なんとなく吸い寄せられてしまうときがある。作者も、たぶんそんな気分だったのだろう。輪飾にしても注連縄にしても、清楚な美しさはあるが、華美なものではない。見ているうちに、歳末特有の感傷も手伝って、それらがふっと(すいと)淋しいものにも見えてくる。それで、買う気になったというわけだが、年の瀬の人の心の微妙な動きをとらえた名句だと言えよう。余談だが、中学時代に投稿していた「毎日中学生新聞」の俳句の選者が爽雨だった。毎週のように採ってもらったことを思い出す。現代俳人の皆吉司は、爽雨の実孫にあたる。はるばると来つるものかな。(清水哲男)


December 26121997

 円鏡のラジオやせわし年用意

                           小沢昭一

用意は、新年を迎えるためにいろいろと支度を整えること。私などは何もしないが、それでも部屋の掃除などをはじめると大変だ。本の山をあっちへやりこっちへやり掃除機をかけたところまではよかったが、その本どもが元の場所に戻らない。どう積み重ねてみても、以前より広い場所を占めてしまう。寝る場所の確保さえ覚束なくなり、本は乱雑に積み上げたほうが狭いスペースですむという真理を発見するに至る。ところで、このときの作者は何をしていたのだろうか。ふと気がつくとつけっぱなしのラジオから、円鏡のせわしない話し声が聞こえてくる。ただでさえせわしないのに……と、さすがの小沢昭一も苦笑の図。これで三平でもからんだヒには、ラジオをぶん投げたくなってしまっただろう。『変哲』所収。(清水哲男)


December 25121997

 受付に僧ひとりゐて賀状書く

                           茨木和生

意先などに出す年賀状の宛名書きも、暮れのサラリーマンの仕事だ。忙しさの合間をぬって書くことになる。普段のデスクワークとは違うので、なんとなく落ち着かない。ふと、フロアの受付のほうに目をやると、黒衣の僧侶が立っているのが見える。当社に、何の用事があるのだろうか。これも、普段とは違う光景だ。気になりながらも、とにかく書いてしまわなければと、またペンを走らせるのである。ちょっとした異時間と異空間にいる気分を、受付に僧侶をひとり立たせることで巧みに表現した句だ。……と読むのは強引な深読みで、そのまま素直に「寺の受付」での光景と読むべきかもしれない。歳末の私という一読者の焦燥感が、せっかくの俳句をねじ曲げたかとも思う。どうだろうか。(清水哲男)




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