妻と娘は深夜のミサへ。仏教徒(?)にして疲れ気味の私は、布団にもぐりこむ……。




1997ソスN12ソスソス25ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

December 25121997

 受付に僧ひとりゐて賀状書く

                           茨木和生

意先などに出す年賀状の宛名書きも、暮れのサラリーマンの仕事だ。忙しさの合間をぬって書くことになる。普段のデスクワークとは違うので、なんとなく落ち着かない。ふと、フロアの受付のほうに目をやると、黒衣の僧侶が立っているのが見える。当社に、何の用事があるのだろうか。これも、普段とは違う光景だ。気になりながらも、とにかく書いてしまわなければと、またペンを走らせるのである。ちょっとした異時間と異空間にいる気分を、受付に僧侶をひとり立たせることで巧みに表現した句だ。……と読むのは強引な深読みで、そのまま素直に「寺の受付」での光景と読むべきかもしれない。歳末の私という一読者の焦燥感が、せっかくの俳句をねじ曲げたかとも思う。どうだろうか。(清水哲男)


December 24121997

 ごうごうと風呂沸く降誕祭前夜

                           石川桂郎

や石炭で沸かす風呂釜の音は、まさに「ごうごう」。とりわけて銭湯の釜の音は威勢がよかった。そんな釜音を心地よく聞きながら、作者は今日がクリスマス・イヴであったことを思い出している。イヴだからといって、別に何か予定があるわけではない。ちらりと胸の中を、華やかなイルミネーションの姿が通り過ぎていっただけのこと。これからゆっくりと熱い風呂に入り、年賀状のつづきでも書くとしようか……。西洋の大祝日に日本的な風呂を配したところが、なんとも微妙な味わいにつながっている。キリスト者は別にして、昔の庶民的なイヴのイメージとは、およそこのようなものであった。それにしても、「ごうごう」と音を発して沸く風呂が懐しい。あれは、身体の芯から暖まった。そして、どこの家庭の風呂場の屋根にも、決してサンタクロースが入れっこない細い細い煙突がついていたっけ。(清水哲男)


December 23121997

 数へ日の町に伸びゐる山の影

                           伊藤通明

年もあとわずか……。指折り数えるかどうかは別にして、そう思うだけで、故知れぬ感慨がわいてきたりする。この季節は、一年でいちばん日照時間が短いこともあり、文字どおりに「暮れる」という感じが肌に迫ってくるようだ。句の町は山に囲まれているから、日暮れも早い。あっという間に、山の影が小さな町を暗くしてしまう。いっそう、歳末感が濃くなるのである。「数へ日」という言葉は古くからあったが、季語となったのは太陽暦採用以後らしい。つまり、たとえば江戸期に「数へ日」というときは、いまの一月下旬頃にあたるから、むしろ春近しの明るいイメージがあったはずである。そんなに、センチメンタルな雰囲気はなかった。その意味で「数へ日」は太陽暦の申し子なのであり、絶妙な現代季語と言えよう。間もなく、今年も暮れていく。(清水哲男)




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