大きな買い物袋を提げた人がバスに乗ってくるようになった。見かけるだけで焦る。




1997ソスN12ソスソス19ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

December 19121997

 金色の老人と逢ふ暮れの町

                           平井照敏

和50年代の句でしょう。不思議な感触の句である。この金色の老人は何者なのであろうか。怪人二十面相の黄金仮面か、それとも単なる夕日に頬を輝かせているホームレスの年寄りか、あるいはこの庶民の難局の救済にあらわれた菩薩のたぐいなのだろうか。謎が謎を呼ぶのである。初期の石川淳の小説には、よくこうした不思議な人物が現れたが、それらは終戦直後の焼け跡、闇市によく似合っていた。この句の作られた50年代には、本当の金色老人があちこちにいたのであるが、バブル崩壊後のいま、彼等はどこにいったのであろうか。『天上大風』所収。(井川博年)


December 18121997

 歳暮ともつかず贈りて恋に似る

                           上村占魚

暮本来の意味は、日頃の好誼を相互に感謝しあうために贈り物を交換したり、酒宴を設けたりすること。したがって、忘年会も立派な「歳暮」(正式には「歳暮の礼」)のうちなのであった。が、いつの間にか、物を贈ることだけを「歳暮」と言うようになり、デパートが忙しいというわけである(もっとも、そのデパートなどの商魂が、古来の意味を今日的に転化させたと言うほうが正確かもしれないが……)。句の作者は、そんな慣習のなかで、歳暮という形で物を贈るには不似合いの相手に、プレゼントの品を贈ってしまった。相手は、職場関係でもなく姻戚関係でもなく、さりとて日頃仕事上で特別の世話になっている人でもない。平常、なんとなく好意を持っている相手なのであり、他の人たちに贈るときに、ついでのようにして発送を依頼したのだった。その振るまいを考えてみるに、なんだか「恋の心」からのようだと、作者は微苦笑している。貰った側は、おそらく何かの間違いではないかと、しばし首をかしげたことであろう。(清水哲男)


December 17121997

 ビルの間の老舗さきがけ松立つる

                           和田暖泡

の一般家庭では、二十日過ぎくらいになると門松を立てたものだ。が、商店街は別で、ずっと早かった。ところが、最近はクリスマス商戦が盛んになり、まさか門松とツリーとを一緒に立てるわけにもいかず、商店街の門松は暮もギリギリにならないと見られなくなってしまった。そんなご時世のなか、ビルの谷間に頑固に昔風を残している老舗だけは、今年も例年と同じく、いちはやく門松を立てたというのである。老舗の心意気であり、意地でもあるだろう。ジングル・ベルの流れる街の一隅に、毅然として立っている門松が清々しい気分にさせてくれる。「なにがクリスマスでぇ、ベラボウめが……」という老主人の声までが聞こえてきそうな句だ。『徒然草』に「大路のさま、松立てわたしてはなやかにうれしげなるこそ」とある。かと思うと、虚子に「門松を立てていよいよ淋しき町」の一句がある。(清水哲男)




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