どこかに、くつろげる場所はないか。見回して、結局はパソコンの前に戻ってくる。




1997ソスN12ソスソス18ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

December 18121997

 歳暮ともつかず贈りて恋に似る

                           上村占魚

暮本来の意味は、日頃の好誼を相互に感謝しあうために贈り物を交換したり、酒宴を設けたりすること。したがって、忘年会も立派な「歳暮」(正式には「歳暮の礼」)のうちなのであった。が、いつの間にか、物を贈ることだけを「歳暮」と言うようになり、デパートが忙しいというわけである(もっとも、そのデパートなどの商魂が、古来の意味を今日的に転化させたと言うほうが正確かもしれないが……)。句の作者は、そんな慣習のなかで、歳暮という形で物を贈るには不似合いの相手に、プレゼントの品を贈ってしまった。相手は、職場関係でもなく姻戚関係でもなく、さりとて日頃仕事上で特別の世話になっている人でもない。平常、なんとなく好意を持っている相手なのであり、他の人たちに贈るときに、ついでのようにして発送を依頼したのだった。その振るまいを考えてみるに、なんだか「恋の心」からのようだと、作者は微苦笑している。貰った側は、おそらく何かの間違いではないかと、しばし首をかしげたことであろう。(清水哲男)


December 17121997

 ビルの間の老舗さきがけ松立つる

                           和田暖泡

の一般家庭では、二十日過ぎくらいになると門松を立てたものだ。が、商店街は別で、ずっと早かった。ところが、最近はクリスマス商戦が盛んになり、まさか門松とツリーとを一緒に立てるわけにもいかず、商店街の門松は暮もギリギリにならないと見られなくなってしまった。そんなご時世のなか、ビルの谷間に頑固に昔風を残している老舗だけは、今年も例年と同じく、いちはやく門松を立てたというのである。老舗の心意気であり、意地でもあるだろう。ジングル・ベルの流れる街の一隅に、毅然として立っている門松が清々しい気分にさせてくれる。「なにがクリスマスでぇ、ベラボウめが……」という老主人の声までが聞こえてきそうな句だ。『徒然草』に「大路のさま、松立てわたしてはなやかにうれしげなるこそ」とある。かと思うと、虚子に「門松を立てていよいよ淋しき町」の一句がある。(清水哲男)


December 16121997

 ふろふきや猫嗅ぎ寄りて離れけり

                           小沢昭一

ったくもって、猫にはこういうところがある。実に、そっけない。常識的に考えて、風呂吹き大根が猫の好物とは思わないけれども、しかし匂いを嗅いだからには何かもっと別のアクションを期待するのが、作者を含めた人間の情というものだろう。それを「ふん」という表情さえも見せずに、あっちへ行ってしまう。猫だから仕方がないのであるが、こんなとき人は軽く落胆する。この句には、そんな作者の表情が見えるようだ。そしてしばしば、人間の女性にも、こうした猫タイプの人がいる。人情的な期待に応えないのだ。興味や関心は薄くても、男だったら、何とか期待に応える振る舞いをしようと努力するのだが、女性のうちには「ふん」でもなければ「すー」でもないという人がいて、我々男はそのたびに落胆してきた。この男の純情(?)を、君知るや。昔から女性が猫に例えられるのも、むべなるかな。だから、女性は可愛いのだし猫も可愛い。そういう男もゴマンとはいるけれど……。『変哲』所収。(清水哲男)




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