インドネシア産の炬燵の木枠。現地の人は何を作っているのか理解できないだろう。




1997ソスN12ソスソス16ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

December 16121997

 ふろふきや猫嗅ぎ寄りて離れけり

                           小沢昭一

ったくもって、猫にはこういうところがある。実に、そっけない。常識的に考えて、風呂吹き大根が猫の好物とは思わないけれども、しかし匂いを嗅いだからには何かもっと別のアクションを期待するのが、作者を含めた人間の情というものだろう。それを「ふん」という表情さえも見せずに、あっちへ行ってしまう。猫だから仕方がないのであるが、こんなとき人は軽く落胆する。この句には、そんな作者の表情が見えるようだ。そしてしばしば、人間の女性にも、こうした猫タイプの人がいる。人情的な期待に応えないのだ。興味や関心は薄くても、男だったら、何とか期待に応える振る舞いをしようと努力するのだが、女性のうちには「ふん」でもなければ「すー」でもないという人がいて、我々男はそのたびに落胆してきた。この男の純情(?)を、君知るや。昔から女性が猫に例えられるのも、むべなるかな。だから、女性は可愛いのだし猫も可愛い。そういう男もゴマンとはいるけれど……。『変哲』所収。(清水哲男)


December 15121997

 水鳥のしづかに己が身を流す

                           柴田白葉女

鳥、鴨、雁、百合鴎、鳰(かいつぶり)、鴛鴦(おしどり)など、水鳥たちはこの時期、雄はとくに美しい生殖羽になる。そんな水鳥がゆったりと水に浮かんで、我が身を流れのままにまかせている様子だ。つまり、見たままそのままの情景を詠んだ句であるが、ここには作者の、水鳥のそんな自然体での生活ぶりへの憧憬がこめられている。ごく普通の水鳥の生態を、あくせくした人間社会から眺めてみると、句のように、つい羨望の念にとらわれてしまうということだ。もちろんこのような羨望は筋違いなのだけれど、作者とてそれは承知なのだが、自然界の悠々自適を肌で感じると、このように無理な願いの心がわいてきてしまうのは「人情」というものなのだろう。暮の忙しい時期になると、決まってこの句を思い出す。(清水哲男)


December 14121997

 木がらしや目刺にのこる海のいろ

                           芥川龍之介

句には違いない。木枯らしの音と目刺しの青い色とが響きあう。巧みなものである。ただ、生活臭はまったく感じられない。このことは、実は作者が最も気にしているところで、平仮名の神経質な用い方にそれがうかがえる。句の光景に、なんとか人間の匂いを入れようと苦心している。ちなみに「凩や目刺に残る海の色」と漢字を多用してみると、そのことがよくわかるだろう。ここで芥川の最初の発想は、木枯らしと目刺しの取り合わせの妙を面白がりすぎていて、その面白がりようはモダニズムのそれに近いものだと思う。つまり、木枯らしや目刺しの本源的なありようよりも、関心は別のところにあったというわけだ。だから、これではならじと必死に本源へ引き戻している姿が、平仮名の用い方に滲み出ている。が、そのような苦闘にもかかわらず、この句は一枚のしゃれた絵なのであって、現実には届いていないと読んでおく。(清水哲男)




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