December 121997
寒風に売る金色の卵焼
大木あまり
美味しいことで評判の、その店の名物なのだろう。北風の町を通りかかると、いつもと同じように、今日もその店ではショー・ケースに並べて卵焼きを売っている。寿司屋が出すような厚焼きにした卵焼きは、冷やしてから売る。湯気などたってはいないので、普段でも冷たいイメージがある。ましてや北風の通りから見ているのだから、なおさらだ。その豪勢にして冷たい金色と寒風との取り合わせの妙。おいしそうというよりも、その冷たい美しさに目を奪われてしまう。そろそろ正月の用意が気になる、主婦ならではのウィンドウ・ショッピングの感覚だ。このときの作者は、きっと卵焼きは買わなかっただろう。買うには、まだちょっと正月には遠い。もう少し押し詰まってきたらと心に決めて、北風の中を家路を急いだのだろう。『雲の塔』(1993)所収。(清水哲男)
December 111997
燃えつきし焔の形シクラメン
田川飛旅子
明治時代に渡来した外国花。別名を「篝火花(かがりびばな)」という。この句のとおりに、燃え尽きる直前の焔(ほのお)が、パッと明るくなるような美しい姿をしている。しかも、こちらの焔は長持ちする。私の好きな花のひとつだ。クリスマス近くになると花屋の店先を飾るので、冬の花と思っている人も多いだろうが、元来は春の花だ。したがって、季語も春。布施明に「シクラメンのかほり」という歌があって、いったいシクラメンに香りがあるものかどうかと話題になったことがある。物好きとしては花びらに鼻をくっつけてかいでみたが、まずは無臭というべきであろう。ところで、イタリアではシクラメンの球根を放し飼いの豚が食べるので、「豚の饅頭」と言うそうだ。だから、この歌だけはイタリア語に翻訳しないほうがよさそうである。(清水哲男)
December 101997
足はつめたき畳に立ちて妻泣けり
中村草田男
昭和十五年(1940)の作。草田男四十歳の冬である。帰宅すると、妻が立ったまま泣いていた。手放しに近い号泣だ。どんなに悲しい出来事が、妻の身に訪れたのだろうか。問いの言葉もままならず、しゃくりあげる妻の姿を呆然と見ているうちに、人間とは妙なもので、逆にずいぶんと冷静になってしまうことがある。泣いている妻は冷たさなど感じてはいないはずなのだけれど、作者はつい冷たい畳に思いがいってしまっている。この後、たぶん妻の姿はすうっと小さくなり、故知れぬいとしさのようなものが沸き上がってきたということなのだろう。私にも(もしかすると、あなたにも)似たような思い出はあるが、このような場でヒトサマに発表するようなことではない。それにしても、俳句はいいなア。なんだかわからないけれど、部分を書くだけで全体をなんだかわかるような様子に仕立てあげられるのだもの……。『萬緑』(1940)所収。(清水哲男)
『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます
|