December 081997
妻なきを誰も知らざる年わすれ
能村登四郎
親しい人たちとの忘年会ではない。初対面の人も、何人かいる。そんな席では誰かが、座をなごませるべく、リップ・サービスのつもりで自分の妻のドジぶりを披露したりする。「そんなのはまだ序の口だよ」と別の誰かが陽気に応じ、隣席の作者に同意を求めたのでもあろうか。そんなときに、実は妻とは死別したなどと切り出すわけにもいかず、曖昧に頷いておくことくらいしかできない。なにしろ、話し手は善意なのだから……。そして、このことで作者は傷ついたというわけではないと思う。妻がいるのが普通だという通念が、もはや成立しないほどの年齢にさしかかったみずからの高齢に、いわばしみじみと直面させられているのである。このときに一瞬、灯りのついていない我が家のたたずまいを思い浮かべただろう。会が果てれば、そこへひとり帰っていくのだ。『寒九』(1986)所収。(清水哲男)
December 071997
十二月まなざしちらと嫁ぎけり
中尾寿美子
十二月に結婚式を挙げるカップルは少ないだろう。短くない私の人生でも、一度も出合ったことがない。相手方の急な転勤話など、よほどの事情でもないかぎり、この忙しい時期の結婚式は顰蹙をかうことになる。この句の場合はどうなのだろうか。その事情のほどは、花嫁の「まなざしちらと」に万感の思いとして秘められている。もちろん、作者には事情が飲み込めているのだろう。たぶん、列席者も多くはない淋しい式である。だからこそ、花嫁にはより幸せになってほしいと、作者は切に願っているのだし、共に句の読者もそう思うのだ。(清水哲男)
December 061997
膳棚へ手をのばしたる火燵かな
温 故
江戸期の句。膳棚は椀などの食器を置いておく棚のことで、火燵(こたつ・炬燵)に入ったまま、何かを取るために棚の方に思いきり手をのばしている図。作者ならずとも、誰しもがそんな経験を持つ。だから、誰もがこの句にニヤリとしてしまう。漫画の「サザエさん」にも、似たようなシーンがあったような気がする。誰が言い出したのか、火燵には「無性箱」なる異名もあったという。近頃では室内暖房の様子も昔とはだいぶ違ってきて、炬燵も過去のものとなりつつあるが、炬燵がなくなっただけ、人の動きは活発になっただろうか。活発になったとしても、一家団欒の場が失われたこととの<損得勘定>はどんなものだろう。柴田宵曲『古句を観る』(岩波文庫)所載。(清水哲男)
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