「失楽園」やら「透明な存在」やら「たまごっち」など人の気配のしない流行語。




1997ソスN12ソスソス2ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

December 02121997

 短日の燃やすものもうないかしら

                           池田澄子

要の物を庭で燃やしている。すべてが灰になりかかった頃に、ふと頭をかすめた言葉。この際だから、日のあるうちに燃やすものは燃やしてしまわなければ……。ゴミの収集日と同じで、主婦ならば誰しもが日常的に思うことだ。客観的にはそんなに切実な思いであるはずもないが、この一瞬の作者にとっては切実なのである。その真剣さがこのように書きとめられたとき、句は微苦笑の対象となった。作者の句は肩肘はらない発想が魅力であり、それらの多くは口語文体を取り入れる技法によっているものだ。いまの若い俳人にも口語で書く人は多いが、作者のそれには到底及ばない。何故なら、池田澄子は自分を飾るために俳句を書いているのではないからである。『池田澄子句集』(1995)所収。(清水哲男)


December 01121997

 十二月遁れて坐る落語席

                           野地新助

さか借金取りから遁(のが)れて寄席に来たのではあるまい。だとしたら、作者のほうが落語の主人公になってしまう。些事やら大事やら、とにかく十二月は忙しい。とてもじゃないが、どんなに按配しても、時間のやりくりがつかなかったりする。そんなときに、人は妙な行動をとることがある。作者のように、不意に寄席に飛び込んじまったりするのである。私にも経験があるが、そんな暇なんぞはこれっぽっちもないのだけれど、ぼおっと落語を聞いていたりするのだ。多少とも「アトは野となれ」の心境でもあり、ここを出たら頑張ろうと自分に言い聞かせながらの執行猶予の時間なのである。師走の寄席で人気の演目は、なんといっても「芝浜」だろう。博打打ちにして大酒飲みだった桂三木助(読んでないけれど、山本昌代の『三世桂三木助』という本が新潮社から新刊で出ている)の「芝浜」は絶品だった。今夜9時30分からNHKラジオの「ラジオ名人寄席」でその「芝浜」が放送される。演者が三木助なのかどうか。先週の予告を聞き漏らしてしまったが、はじめての人には、聞いておいてソンはない噺である。(清水哲男)


November 30111997

 黄落をあび黒猫もまた去れり

                           中嶋秀子

葉の黄色と猫の黒色を対比させた絵画的な作品だ。ここで落葉はほとんど金色であり、猫もビロードのような見事な黒色でなければならない。薄汚れた野良猫の類ではない。猫を詠んだ句は多いが、このように貴族的な感じのする猫が登場する句は稀である。実景なのか、幻想なのか。もはや黒猫が舞台から去ってしまった以上、それはどちらでもよいことで、残された作者は自然の描いた巧まざる傑作を胸に抱いて、またこの場を離れていくのである。中身は違っても、こういう種類の記憶の一つや二つは、誰にでもあるだろう。俳句という装置は、そのような曰く言い難い光景を取り込むのにも適している。『花響』(1974)所収。(清水哲男)




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