やっと「朝日」が思い出して破綻会社の労組を取材。この反応の遅さは悲劇的だ。




1997ソスN11ソスソス30ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

November 30111997

 黄落をあび黒猫もまた去れり

                           中嶋秀子

葉の黄色と猫の黒色を対比させた絵画的な作品だ。ここで落葉はほとんど金色であり、猫もビロードのような見事な黒色でなければならない。薄汚れた野良猫の類ではない。猫を詠んだ句は多いが、このように貴族的な感じのする猫が登場する句は稀である。実景なのか、幻想なのか。もはや黒猫が舞台から去ってしまった以上、それはどちらでもよいことで、残された作者は自然の描いた巧まざる傑作を胸に抱いて、またこの場を離れていくのである。中身は違っても、こういう種類の記憶の一つや二つは、誰にでもあるだろう。俳句という装置は、そのような曰く言い難い光景を取り込むのにも適している。『花響』(1974)所収。(清水哲男)


November 29111997

 町落葉何か買はねば淋しくて

                           岡本 眸

には、こういう発想はない。もちろん故なく淋しくなることはあるが、そんなときにはたいてい居酒屋に立ち寄ってきた。女性の場合には「ヤケ買い」の衝動に駆られる人も多いというから、「淋し買い」もあるのだろう。ちょっとした買い物で心が暖まるのならば、それはそれで素敵な自己コントロール法だと思う。このようなときに、作者はどんな買い物をするのだろうか。この句が詠まれた前年の冬の作品に、こうある。「キヤラメル買つて寒夜故なく淋しめる」。買えば買ったで、より淋しさが募ってしまうこともあるわけで、キャラメルは失敗だった。キャラメルには、どうしても郷愁を誘うところがあるから、独り暮らしの大人の心には毒なのである。『矢文』(1990)所収。(清水哲男)


November 28111997

 ことごとく木を諳んじる時雨なり

                           穴井 太

たくて細かい雨が降りつづいている。その細かさは、一木一草をも逃さずに濡らしているという感じだ。あたかも時雨が、木々の名前をことごとく諳(そら)んじているかのようである。雨の擬人化は珍しい。逆の例では、うろ覚えで恐縮だが(したがって表記も間違っているかもしれないが)、佐藤春夫の詩にこんな一節があった。「泣き濡れた秋の女をしぐれだと私は思ふ……」。泣いている女の様子に時雨を感じているわけだが、この句の時雨擬人の性別は「男」だろう。それも「少年」に近い年齢だという気がする。『原郷樹林』(1991)所収。(清水哲男)




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