北風吹き抜く寒い朝も心ひとつで暖かくなる……。昔、吉永小百合が歌っていた。




1997ソスN11ソスソス19ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

November 19111997

 汽車の胴霧抜けくれば滴りぬ

                           飴山 實

和29年の作品。いわゆるSLである。なんとなく「生き物」という感じがしたものだ。いまの新幹線などは点から点へ素早く冷静に移動させてくれる乗り物でしかないが、昔の機関車は私たちをエッチラオッチラ一所懸命に運んでくれているという感じだった。汽笛にも「感情」がこめられているようだった。したがって、この句は客観写生句ではあるけれど、読者にはどこかでそれを越えた作者のねぎらいの心が伝わってくるのである。まだ観光旅行もままならず、乗客がみなよんどころのない事情を抱えていた時代の汽車は、いわば数々の人間ドラマを運んでいたわけで、それだけにいっそう神秘的にも見えたのだろう。同じ作者の前年の作に、敦賀湾で詠んだ「冬の汽笛海辺の峠晴れて越す」がある。『おりいぶ』(1959)所収。(清水哲男)


November 18111997

 雑炊に蟹のくれなゐひそめたり

                           山田明子

の作品は角川版『俳句歳時記』(1974)に載っていて、当時読んですぐに好きになった句だ。ちなみに、現在出ている新版からは、残念なことに削られてしまっている。作者については何も知らないが、心根の美しい人であるに違いない。料理屋などが出す雑炊はちゃんと米から仕立てるので、もとよりそれなりに美味ではある。が、家庭ではこの場合のように余ったご飯を雑炊にするのが普通だから、ちらりと蟹の脚(これも余り物)をひそませておく心づかいは、また格別のおいしさに通じるだろう。どんな料理の味も、料理人の機転が左右する。その機転に押しつけがましさのない愛情が加わったとき、たかが雑炊(おじや)といえどもが、至上のご馳走になるのである。この句は、雑炊を食べたい気持ちよりも、むしろ作ってみたい気持ちを起こさせてくれる。(清水哲男)


November 17111997

 寝るだけの家に夜長の無かりけり

                           松崎鉄之介

中多忙で飛び回っている人にとって、家は単に寝に帰るだけの場所だから、なるほど「夜長」もへちまもない理屈である。物理的時間的な余裕のなさもさることながら、精神的にも「夜長」を味わうことのできない日常。猛烈サラリーマンの時代は去ったとはいえ、まだまだ働く男たちのなかには、このような心情の持ち主も多いのではなかろうか。自嘲の句であるが、諦めと怒りの感情が交錯しているようなところが味わい深い。季語「夜長」の常識的な抒情を逆手にとった面白さ。作者は大野林火を継いでの俳誌「濱」の主宰者である。『巴山夜雨』(1995)所収。(清水哲男)




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