新聞休刊日。日本サッカー勝利で駅売のスポーツ紙が飛ぶように売れる(はず)。




1997ソスN11ソスソス17ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

November 17111997

 寝るだけの家に夜長の無かりけり

                           松崎鉄之介

中多忙で飛び回っている人にとって、家は単に寝に帰るだけの場所だから、なるほど「夜長」もへちまもない理屈である。物理的時間的な余裕のなさもさることながら、精神的にも「夜長」を味わうことのできない日常。猛烈サラリーマンの時代は去ったとはいえ、まだまだ働く男たちのなかには、このような心情の持ち主も多いのではなかろうか。自嘲の句であるが、諦めと怒りの感情が交錯しているようなところが味わい深い。季語「夜長」の常識的な抒情を逆手にとった面白さ。作者は大野林火を継いでの俳誌「濱」の主宰者である。『巴山夜雨』(1995)所収。(清水哲男)


November 16111997

 黄落やジーンズ家族に空の青

                           藤田直子

ながら、この季節の家庭雑誌の表紙絵のようだ。晴れた日の昼下がり、ジーンズ姿の一家四人(とは書いてないけど)が黄落する山道か公園を歩いている。真青な空を背景に、黄色い木の葉がときおり舞い落ちてくる。おだやかな小春日の、なんでもない一齣だが、この種の記憶は案外いつまでも残るものなのだ。ひょっとすると「黄落」は「行楽」にかけられているのかもしれない。そう読むと、ちょっと怖い。この一家のささやかな幸福感も、やがては枯れて散りはててしまうことを、作者が予感していることになるからだ。でも、たぶんこれは深読みだろう。字面通りに素直に受け取っておくほうが楽しいし、精神衛生的にもよろしいと思う。余談だが、一年中ジーンズで通している私には、俳句にジーンズが出てくるだけで、単純に嬉しくなってしまうところがある。『極楽鳥花』(1997)所収。(清水哲男)


November 15111997

 花嫁を見上げて七五三の子よ

                           大串 章

五三の子と花嫁が神社で鉢合わせ。着飾った小さな子供たの間でだからこそ、花嫁はひときわ目立つだろう。子供の目にも異質とうつるのだろうか、千歳飴を引きずるようにしてポカンと見とれている姿が可愛らしい。そこをすかさずスナップした作者の目もハンパじゃない。ちなみに、千歳飴は親戚などへの配り物にするのが本来で、子供が自分で舐めるものではありません。ところで、大串君も私も、七五三の頃は戦争の渦中にあった。七五三という行事があることさえ知らなかった。しかし、そんななかでもちゃんと七五三を祝ってもらった友人もいて、写真を見せてもらったら、軍服姿でひどく緊張していた。『朝の舟』(1978)所収。(清水哲男)




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