曇天の下、花屋の店先に万両の紅い実が……。東京にも冬の色がにじみ出てきた。




1997ソスN11ソスソス14ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

November 14111997

 小春日のをんなのすはる堤かな

                           室生犀星

全体が春の日のようにまろやか。女も土手も、ぼおっと霞んでいるかのようだ。平仮名の使い方の巧みさと二つ重ねた「の」の効果である。とくに旧仮名の「をんな」が利いている。新仮名の「おんな」では、軽すぎてこうはいかない。ところで、八木忠栄の個人誌「いちばん寒い場所」(24号・1997年11月)の表紙に、犀星のこんな文章が引用されていた。「『一つ俳句でもつくって見るかな』といふ軽快な戯談はもはや通らないのである。『俳句は作るほど難しくなる』といふ嘆息がつい口をついて出てくるやうになると、もう俳句道に明確にはいり込んでゐるのだ。どうか皆さん、『俳句でも一つ作って見るか』などといふ戯談は仰有らないやうに、そして老人文学などと簡単に片づけてくださらないやうに」。「俳句道」には恐れ入るが、言いたいことはよくわかる。上掲の句は『遠野集』所載。(清水哲男)


November 13111997

 焚火せる子らは目敏く教師を見

                           森田 峠

者は高校教師(市立尼崎高校国語科担当)だったから、焚火をしているのは高校生たちだ。下校途中の空き地か河原あたりの情景だろうか。「ウチの生徒だな」と作者が気がつくのと同時くらいに、いやそれ以前にか、もう生徒たちは目敏く(めざとく)も自分の姿を認めてしまっている。いつの時代にも、教師と生徒との関係はこんな具合であるようだ。雑踏のなかを歩いていても、いちはやくお互いを発見してしまえるのも不思議といえば不思議である。何か特殊なテレパシーでも働くのだろう。日常的に、それほどの緊張関係にあるということである。同じ作者に「うしろにも眼がある教師日向ぼこ」がある。『避暑散歩』(1973)所収。(清水哲男)


November 12111997

 しかすがによしこのおひとおでんかな

                           加藤郁乎

まり評判のよくない人と聞いていたが、そうはいうものの(しかすがに)実際に話をしてみると、なかなかよい人じゃないか。おでんも美味いし、今夜はよい酒になりそうだ。と、素直にとればそういう句である。ところが、この平仮名が曲者で、もう一つの意味を想像させられてしまう。「よしこ」を隠された女の名と読んだらどうなるだろうか。「よしこのおひと」は、たちまちにして「よしこの情人」と姿を変える。そうなると、おでんで一杯やっている相手は恋敵だ。上辺はおだやかに飲んでいるけれど、そうはいってもこいつのどこがいいんだろうかと、嫉妬の炎は消えないのである。どんな風の吹き回しで、こんな男と飲む羽目になっちまったのだろう。おでんも不味いし、悪い酒にならなきゃいいが……。とまあ、こんな具合にも読めるわけだ。いったい、どっちなのか。「まだまだ読みが浅いな」と、郁乎さんの哄笑が聞こえてきそうな気分だ。『草樹』(1980-1986)所収。(清水哲男)




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