目覚めたら雨。何日ぶりだろう。「喜雨」(夏の季語)ならぬ「慈雨」の感あり。




1997ソスN11ソスソス13ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

November 13111997

 焚火せる子らは目敏く教師を見

                           森田 峠

者は高校教師(市立尼崎高校国語科担当)だったから、焚火をしているのは高校生たちだ。下校途中の空き地か河原あたりの情景だろうか。「ウチの生徒だな」と作者が気がつくのと同時くらいに、いやそれ以前にか、もう生徒たちは目敏く(めざとく)も自分の姿を認めてしまっている。いつの時代にも、教師と生徒との関係はこんな具合であるようだ。雑踏のなかを歩いていても、いちはやくお互いを発見してしまえるのも不思議といえば不思議である。何か特殊なテレパシーでも働くのだろう。日常的に、それほどの緊張関係にあるということである。同じ作者に「うしろにも眼がある教師日向ぼこ」がある。『避暑散歩』(1973)所収。(清水哲男)


November 12111997

 しかすがによしこのおひとおでんかな

                           加藤郁乎

まり評判のよくない人と聞いていたが、そうはいうものの(しかすがに)実際に話をしてみると、なかなかよい人じゃないか。おでんも美味いし、今夜はよい酒になりそうだ。と、素直にとればそういう句である。ところが、この平仮名が曲者で、もう一つの意味を想像させられてしまう。「よしこ」を隠された女の名と読んだらどうなるだろうか。「よしこのおひと」は、たちまちにして「よしこの情人」と姿を変える。そうなると、おでんで一杯やっている相手は恋敵だ。上辺はおだやかに飲んでいるけれど、そうはいってもこいつのどこがいいんだろうかと、嫉妬の炎は消えないのである。どんな風の吹き回しで、こんな男と飲む羽目になっちまったのだろう。おでんも不味いし、悪い酒にならなきゃいいが……。とまあ、こんな具合にも読めるわけだ。いったい、どっちなのか。「まだまだ読みが浅いな」と、郁乎さんの哄笑が聞こえてきそうな気分だ。『草樹』(1980-1986)所収。(清水哲男)


November 11111997

 何もせぬごとし心の冬支度

                           三橋敏雄

るほど。心の冬支度だから、外見には現れないわけだ。冬が迫ってくると、たしかに心は緊張の度を増す。たとえばスキーやスケート、あるいは猟などが大好きな人はべつにして、戸外での活動が衰え、どうしても内面的な生活に比重がかかってくるからだろう。暖房設備の乏しかった昔に比べて、現今の「目に見える」冬支度のあわただしさは減少したが、それだけ「心」の支度は膨張してきたようでもある。冬の夜は、とりわけ寒くて長い。この長い夜の時間を活用して、何事かをなしとげようと心の準備に入っている読者も多いことだろう。それにしても「心の冬支度」とは、誰にでもすらりと発想できそうであるが、実はなかなか出てこない概念だと思う。作者ならではの独特な心の動きだ。「俳句」(1997年1月号)所載。(清水哲男)




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