November 121997
しかすがによしこのおひとおでんかな
加藤郁乎
あまり評判のよくない人と聞いていたが、そうはいうものの(しかすがに)実際に話をしてみると、なかなかよい人じゃないか。おでんも美味いし、今夜はよい酒になりそうだ。と、素直にとればそういう句である。ところが、この平仮名が曲者で、もう一つの意味を想像させられてしまう。「よしこ」を隠された女の名と読んだらどうなるだろうか。「よしこのおひと」は、たちまちにして「よしこの情人」と姿を変える。そうなると、おでんで一杯やっている相手は恋敵だ。上辺はおだやかに飲んでいるけれど、そうはいってもこいつのどこがいいんだろうかと、嫉妬の炎は消えないのである。どんな風の吹き回しで、こんな男と飲む羽目になっちまったのだろう。おでんも不味いし、悪い酒にならなきゃいいが……。とまあ、こんな具合にも読めるわけだ。いったい、どっちなのか。「まだまだ読みが浅いな」と、郁乎さんの哄笑が聞こえてきそうな気分だ。『草樹』(1980-1986)所収。(清水哲男)
November 111997
何もせぬごとし心の冬支度
三橋敏雄
なるほど。心の冬支度だから、外見には現れないわけだ。冬が迫ってくると、たしかに心は緊張の度を増す。たとえばスキーやスケート、あるいは猟などが大好きな人はべつにして、戸外での活動が衰え、どうしても内面的な生活に比重がかかってくるからだろう。暖房設備の乏しかった昔に比べて、現今の「目に見える」冬支度のあわただしさは減少したが、それだけ「心」の支度は膨張してきたようでもある。冬の夜は、とりわけ寒くて長い。この長い夜の時間を活用して、何事かをなしとげようと心の準備に入っている読者も多いことだろう。それにしても「心の冬支度」とは、誰にでもすらりと発想できそうであるが、実はなかなか出てこない概念だと思う。作者ならではの独特な心の動きだ。「俳句」(1997年1月号)所載。(清水哲男)
November 101997
絵所を栗焼く人に尋ねけり
夏目漱石
当歳時記では「秋」に分類しておくが、ヨーロッパでの焼栗は冬の風物詩だ。街頭のあちこちで、おいしそうな匂いをさせながら売っている。ロンドン留学中の漱石がこの句を詠んだのも明治34年2月1日、真冬のことだった。絵所は美術館のこと。日記によれば、Dulwich Picture Gallery である。さりげない詠み方だが、実は漱石必死の場面なのだ。道を聞くならそこらのインテリ風の通行人に尋ねればよいものを、それができない。「もう英国は厭になり候」と虚子に宛てて葉書を書いたのもこの時期で、いわば英会話恐怖症におちいっていた。だから、食べる気もない焼栗を(それも沢山)買い、焼栗屋のおっさんの機嫌をとっておいてから、おずおずと絵所の場所を聞き出したという次第だろう。情報はタダじゃない。身をもって、漱石はそのことを実感したとも言えるが、振り返ってみれば昔から、横丁の煙草屋で道を尋ねるときも、日本人は喫いたくもない煙草を余計に買ったりしてきた。このときの漱石は、そんな日本的な流儀に思わずも縋りついたのだろう。可哀相な漱石。『漱石俳句集』所収。(清水哲男)
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