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1997ソスN11ソスソス11ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

November 11111997

 何もせぬごとし心の冬支度

                           三橋敏雄

るほど。心の冬支度だから、外見には現れないわけだ。冬が迫ってくると、たしかに心は緊張の度を増す。たとえばスキーやスケート、あるいは猟などが大好きな人はべつにして、戸外での活動が衰え、どうしても内面的な生活に比重がかかってくるからだろう。暖房設備の乏しかった昔に比べて、現今の「目に見える」冬支度のあわただしさは減少したが、それだけ「心」の支度は膨張してきたようでもある。冬の夜は、とりわけ寒くて長い。この長い夜の時間を活用して、何事かをなしとげようと心の準備に入っている読者も多いことだろう。それにしても「心の冬支度」とは、誰にでもすらりと発想できそうであるが、実はなかなか出てこない概念だと思う。作者ならではの独特な心の動きだ。「俳句」(1997年1月号)所載。(清水哲男)


November 10111997

 絵所を栗焼く人に尋ねけり

                           夏目漱石

歳時記では「秋」に分類しておくが、ヨーロッパでの焼栗は冬の風物詩だ。街頭のあちこちで、おいしそうな匂いをさせながら売っている。ロンドン留学中の漱石がこの句を詠んだのも明治34年2月1日、真冬のことだった。絵所は美術館のこと。日記によれば、Dulwich Picture Gallery である。さりげない詠み方だが、実は漱石必死の場面なのだ。道を聞くならそこらのインテリ風の通行人に尋ねればよいものを、それができない。「もう英国は厭になり候」と虚子に宛てて葉書を書いたのもこの時期で、いわば英会話恐怖症におちいっていた。だから、食べる気もない焼栗を(それも沢山)買い、焼栗屋のおっさんの機嫌をとっておいてから、おずおずと絵所の場所を聞き出したという次第だろう。情報はタダじゃない。身をもって、漱石はそのことを実感したとも言えるが、振り返ってみれば昔から、横丁の煙草屋で道を尋ねるときも、日本人は喫いたくもない煙草を余計に買ったりしてきた。このときの漱石は、そんな日本的な流儀に思わずも縋りついたのだろう。可哀相な漱石。『漱石俳句集』所収。(清水哲男)


November 09111997

 爛々と虎の眼に降る落葉

                           富沢赤黄男

葉の句には、人生のちょっとした寂寥感をまじえて詠んだものが多いなかで、この句は異色中の異色と言える。動物園の虎ではない。野生の虎が見開いている爛々(らんらん)たる眼(まなこ)の前に、落葉が降りしきっているのである。そんな状況のなかでも、微動だにしない虎の凄絶な孤独感が伝わってきて、一度読んだら忘れられない句だ。作者がこの虎の姿に託したのは、みずからの社会的反逆心のありどころだろうが、一方ではそれが所詮は空転する運命にあることもわきまえている。昔の中国の絵のような幻想に託した現実認識。深く押し殺されてはいるけれど、作者の呻き声がいまにも聞こえてきそうな気がする。(清水哲男)




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