青田昇さん没。72歳。戦後巨人の花形打者。打法は超強引な「巻き込み打ち」だった。




1997ソスN11ソスソス5ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

November 05111997

 寝ておれば家のなかまで秋の道

                           酒井弘司

つかれずにいると、たまさか猛烈な寂しさに襲われることがある。理由など別にないのであるが、心の芯までが冷えてくるような孤独感にさいなまれる。これで聞こえてくるものが、山犬や狼の遠吠えであったりしたら、もうたまらない。作者は、いわゆる「都会」に住んでいる人ではないから、これに似た寂寥感を覚えているのだろう。それを描写して「家のなかまで秋の道」としたところが凄いと思う。人間のこしゃくな智恵の産物である「家」のなかにも、古くから誰とも知らぬ人々が自然に踏みわけてきた道は、それこそ自然に通じていて当然なのだ。私たちはみな、路傍ならぬ道の真ん中で寝ているようなものなのだ。しかも物みな枯れる「秋の道」にである。怖いなア。不眠症の人は、この句を知らないほうがいいでしょうね。あっ、でも、もう読んじゃったか……。では、少なくとも今夜までに早く忘れる努力をしてくださいますように。『青信濃』(1993)所収。(清水哲男)


November 04111997

 空がまだ濁らぬ時刻小鳥くる

                           大庭三千枝

の夜明けは遅い。早起きの作者が待ちかねて窓を開けると、しらじらと明け初めた空の一角には、もう小鳥たちが飛んでいる。同じ冷気のなかにある人と小鳥。「おおい、おはよう……」と声をかけたくなるような親愛感が湧いてくる。人も車も動きださない時刻の空は、あくまでも透明で爽やかだ。さりげない情景だが、秋の早朝の気分をよくとらえていて、好もしい。早起きの人には、とりわけてよい句に思えるだろう。ところで、この句の季語は何でしょうか。「小鳥来る」が秋の季語であることを知らない人は、けっこう多いと思います。小鳥なんて、いつだって来るからです。このあたりが季語の厄介なところですが、俳句の世界では、昔から秋に渡ってくる小鳥たち(つぐみ、ひわ、あおじ等)に限定して使ってきました。他の季節の小鳥と違い、群をなして飛ぶ様子が印象的だからなのでしょう。『花蜜柑』(1997)所収。(清水哲男)


November 03111997

 文化の日一日賜ふ寝てゐたり

                           清水基吉

正月と同じように、祝日を寝て過ごすという句は多い。人間には、世間のはなやぎに背を向ける「快味」というものもあるからだ。ただし、この句の作者はすねているのではない。「賜ふ」というのだから、ありがたい気持ちで寝て過ごしている。なぜありがたいのかと言うと、この日は戦前は明治天皇の誕生日で旗日(天長節・明治節)だったが、敗戦を境に軍国調は排除されることになり、祝日としてのポジションが危うくなった。それが平和憲法の公布を記念して昭和23年に「文化の日」とあらたまり、祝日として延命されることになったからである。理屈はともかくとして、休みが確保されてありがたいという気持ち。「賜ふ」の向こうには、しかし天皇の顔もあって、作者との世代の差を感じさせられる。(清水哲男)




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