October 121997
木の実落ち幽かに沼の笑ひけり
大串 章
地味だが、良質なメルヘンの一場面を思わせる。静寂な山中で木の実がひとつ沼に落下した。音にもならない幽かな音と極小の水輪。その様子が、日頃は気難しい沼がちらりと笑ったように見えたというのである。作者はここで完全に光景に溶け込んでいるのであり、沼の笑いはすなわち作者のかすかなる微笑でもある。大きな自然界の小さな出来事を、大きく人間に引き寄せてみせた佳句と言えよう。大串章流リリシズムのひとつの頂点を示す。大野林火門。『百鳥』(1991)所収。(清水哲男)
October 111997
死にごろとも白桃の旨き頃とも思ふ
河原枇杷男
花に見頃があるように、何につけ頃合いというものがある。だから、我々人間にも「死に頃」があってもよいわけで、老人が「そろそろお迎えが来そうだ」というとき、彼ないし彼女はそのことをひとりでに納得しているのだと思う。そしてこのことは、白桃が旨いという生きているからこその楽しさとは矛盾しない。作者はそういうことを言っている。一読難解のようにも見えるが、むしろ素朴すぎるほどの心情の吐露と言えるだろう。永田耕衣門。『河原枇杷男句集』(1997)所収。(清水哲男)
October 101997
大漁旗ふりて岬の運動会
小田実希次
漁村の運動会とは、こういうものなのだろう。私が育った農村でも、大漁旗こそなかったけれど、村をあげてのお祭り気分という意味では同じであった。なにしろ小学校の運動会を見ながら、大人たちは酒を飲んでいたのだから、いまだったら顰蹙ものである。私はといえば、走るのが遅かったから運動会は嫌いだった。雨が降りますようにと、いつも念じていた。私の運動感覚はかなり妙で、野球は死ぬほど好きなくせに、走ったり飛んだりするのはおよそ苦手である。遺伝的にいうと、母は女学校時代に神宮で走ったことがあり、父はまったくのスポーツ嫌いだ。だから神様はナカを取って私をこしらえたらしいのだが、いやはや迷惑至極なことではある。(清水哲男)
『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます
|