1997ソスN10ソスソス2ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

October 02101997

 秋暁の戸のすき間なり米研ぐ母

                           寺山修司

飯器のなかった頃の飯炊きは、いま思うと大変だった。たいていの家では夜炊いていたが、子供の遠足などがあると、母親は暗いうちから起きだして炊いたものだ。親心である。そんな母親の姿が台所との戸のすき間から見えている。しらじらと明け初めてきた暁の光のなかで一心に米を研ぐ母に、作者は胸をうたれているのである。しかし、作者はこのことを永遠に母には告げないだろう。すなわち、子供は子供としての美学を抱いて生きていくのだ。ところで『新古今集』に、藤原清輔の「薄霧の籬(まがき)の花の朝じめり秋は夕べと誰かいひけむ」という歌がある。もちろん「秋は夕暮」がよいと言った清少納言へのあてこすりだが、ま、このあたりは好きずきというものだろう。あなたは、どちらが好きですか。(清水哲男)


October 01101997

 笑ひ茸食べて笑つてみたきかな

                           鈴木真砂女

い好奇心からの句ではあるまい。八十歳を過ぎ、心から笑うことのなくなった生活のなかで、毒茸の助けを借りてでも大いに笑ってみたいという、一見するとしごく素直な心境句である。が、しかし同時にどこか捨て鉢なところもねっとりと感じられ、老いとはかくのごとくに直球と見紛うフォークボールを投げてみせるもののようだ。よく笑う若い女性にかぎらず、笑いは若さの象徴的な心理的かつ身体的な現象だろう。どうやら社会的な未成熟度にも関係があり、身体的なそれと直結しているらしい。したがって、心理的なこそばゆさがすぐにも身体的な反応につながり、暴発してしまうのだ。私はそれこそ若き日に、ベルグソンの「笑いについて」という文章を読んだことがあるが、笑い上戸の自分についての謎を解明したかったからである。何が書かれていたのか、いまは一行も覚えていない。といって、もはや二度と読んでみる気にはならないだろう。いつの間にやら、簡単には笑えなくなってしまったので……。(清水哲男)


September 3091997

 稲を刈る夜はしらたまの女体にて

                           平畑静塔

で刈る昔の稲刈りの光景。日がある間に、黙々と一株ずつ刈り取っていく。力がいるので、田植えは手伝える小学生も、稲刈りは無理である。重労働なのだ。この句は、そんな激しい労働に従事する若い女性をうたったもの。稲を刈る人々はみな同じようににしか見えないけれど、しかし、そのなかに白い玉のような輝くばかりの肉体の持ち主の存在を想像したところが眼目である。「夜はしらたまの女体」とは、いささか耽美的に過ぎるともいえようが、労働を扱った句としては異色中の異色だろう。なべて詩の第一の要諦は「発見」にある。(清水哲男)




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