September 291997
伐竹をまたぎかねたる尼と逢ふ
阿波野青畝
昔から「竹八月に木六月」といって、陰暦八月頃は竹伐採の好季である。山道では道路交通法など関係がないから、とりあえず伐り出した竹はそこらへんの道端に放り出しておく。そこへ裾長の衣の尼さんが通りかかると、どうなるか。枝葉のついた大きな竹だから、またぐにまたげず立ち往生ということになる。放り出した人は山に入ったままなので、どうにもならない。そんな尼僧と会ったというのだが、このあと作者はどうしたのだろうか。そちらのほうが気になってしまう句だ。人気(ひとけ)の少ない山里での情景だけに、困惑している尼僧の姿が妙になまめかしく感じられる。(清水哲男)
September 281997
甲賀衆のしのびの賭や夜半の秋
与謝蕪村
甲賀衆は、ご存じ「忍びの者」。江戸幕府に同心(下級役人)として仕えた。秋の夜長に退屈した忍びの者たちが、ひそかに術くらべの賭をしてヒマをつぶしているという図。忍びの専門家も、サボるときにもやはり忍びながらというのが可笑しいですね。ところで、このように忍者をちゃんと詠んだ句は珍しい。もちろんフィクションだろうが、なんとなくありそうなシーンでもある。蕪村はけっこう茶目っ気のあった人で、たとえば「嵐雪とふとん引き合ふ侘寝かな」などというちょいと切ない剽軽句もある。嵐雪(らんせつ・姓は服部)は芭蕉門の俳人で、蕪村のこの句は彼の有名な「蒲団着てねたるすがたやひがし山」という一句に引っ掛けたものだ。嵐雪が死んだときに蕪村はまだたったの九歳だったから、こんなことは実際に起きたはずもないのだけれど……。『蕪村句集』所収。(清水哲男)
September 271997
こほろぎにさめてやあらん壁隣り
富田木歩
大正七年の作。前書に「家のために身を賣りし隣の子の親も子煩悩なれば」とあるので、これ以上の解説は不要だろう。木歩はこの前年に「桔梗なればまだうき露もありぬべし」と詠み、「我が妹の一家のため身を賣りければ」という前書をつけている。桔梗になぞらえられた妹まき子は遊女屋で肺病になり、家に戻され、間もなく死ぬ。享年十八歳。自力で歩行することのできなかった作者自身は、関東大震災のために二十六歳の若さで惨死している。弱者にとって、大正とはまことに残酷で理不尽な時代であった。『定本木歩句集』(1938)所収。(清水哲男)
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