1997年8月31日の句(前日までの二句を含む)

August 3181997

 平凡に咲ける朝顔の花を愛す

                           日野草城

れこそ「平凡」な句でしかないだろう。「草城」という署名があるのが不思議なくらいだ。しかし、草城晩年のこの句は、だからこそ人間の表現行為の行方というものを深く考えさせる。若き日の才気煥発ぶりはすっかり影をひそめて、ここにはただ凡庸な表現者がよろけるようにして立っているだけだ。長い病臥の生活、そして片眼の光を失うという不運。かつて山本健吉は、晩年の草城句について「無技巧の技巧と言ってもよいが、それは拙いのではなくて、飽くまでも才人草城が到達した至境なのである」と、暖かい言葉で解説したことがある。そのようなときがあるとしたら、私もたぶんそうするだろう。が、これは本当に「才人草城が到達した至境」なのであろうか。ささやかな表現者でしかない私だけれど、しばしこの句の前で立ち止ってしまうほどの衝撃を受けた。『人生の午後』所収。(清水哲男)


August 3081997

 冷え過ぎしビールよ友の栄進よ

                           草間時彦

人が栄進した。異例の出世である。そこで、とりあえずのお祝いにと、作者は友人を誘って一杯やりに出かけた。たぶん、二人の馴染みの小さな店だろう。と、出されたビールが、今夜にかぎって冷え過ぎている。生温いビールもまずいが、あまりに冷え過ぎたのも美味くはない。「なんだい、冷え過ぎだよ」と、思わずも口走ってしまう。つまり、自分はあくまでも素直に友の出世を祝福するつもりでいたのだが、冷え過ぎのビールに当たるという形で、どこかに隠れていた妬みの感情が露出してしまったということなのである。サラリーマンの哀しみ。(清水哲男)


August 2981997

 夏痩せてすでに少女の面影なし

                           岡田日郎

段はそのふっくらとした体つきに、どことなく幼さも感じられる女性だった。が、痩せてくるともはやそんな少女の面影は消えてしまい、一人の大人の「女」としての存在感が際立つようになったというのである。余談になるが、最近は「夏痩せ」という言葉をほとんど聞かなくなった。明らかな「夏痩せ」の人の姿も見かけない。冷房設備が普及してきたので、誰もが極度の食欲の衰えを感じなくなってきたためだろう。逆にいまでは「夏太り」するという人さえあるようだ。「夏痩せ」も死語になるのだろうか。(清水哲男)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます