小沢昭一の句

August 1081997

 時計屋の微動だにせぬ金魚かな

                           小沢昭一

したる蔵書もない(失礼)吉祥寺図書館の棚で、俳優の小沢昭一の句集『変哲』(三月書房)をみつけた。なぜ、こんな珍本(これまた失礼)がここにあるのかと、手に取ってみたら面白かった。「やなぎ句会」で作った二千句のなかから自選の二百句が収められている。この作品は、手帳にいくつか書き写してきたなかの一句だ。古風な時計店の情景ですね。店内はきわめて静かであり、親父さんも寡黙である。聞こえる音といったら、セコンドを刻む秒針の音だけ。金魚鉢の金魚も、静謐そのもの……。一瞬、時間が止まったような時計店内の描写が鮮やかである。うまいものですねえ。脱帽ものです。(清水哲男)


November 20111997

 疲労困ぱいのぱいの字を引く秋の暮

                           小沢昭一

集『変哲』(1992年・三月書房)より。90年の作。いやあ、よくわかるなあ、この気持ち。実は評者も目下、経済不如意、痛風持ちの上に、先頃自転車で転んで手をつき指し、直ったら今度は中耳炎の再発で右耳が良く聞えない、という散々な状態なのです。そして同じように「ぱい」の字がわからないので、老眼鏡を掛けて字引を引いたという次第。疲労困憊。本来は今は初冬で秋の暮ではないのだが、今年は変に暖かく、まだ冬には早い感じ。でもすぐ冬になるのだ……、やれやれ。「変哲」は小沢昭一の俳号。この句集は中高年のオジサンにとっては、実にアリガタイ句集です。(井川博年)


December 16121997

 ふろふきや猫嗅ぎ寄りて離れけり

                           小沢昭一

ったくもって、猫にはこういうところがある。実に、そっけない。常識的に考えて、風呂吹き大根が猫の好物とは思わないけれども、しかし匂いを嗅いだからには何かもっと別のアクションを期待するのが、作者を含めた人間の情というものだろう。それを「ふん」という表情さえも見せずに、あっちへ行ってしまう。猫だから仕方がないのであるが、こんなとき人は軽く落胆する。この句には、そんな作者の表情が見えるようだ。そしてしばしば、人間の女性にも、こうした猫タイプの人がいる。人情的な期待に応えないのだ。興味や関心は薄くても、男だったら、何とか期待に応える振る舞いをしようと努力するのだが、女性のうちには「ふん」でもなければ「すー」でもないという人がいて、我々男はそのたびに落胆してきた。この男の純情(?)を、君知るや。昔から女性が猫に例えられるのも、むべなるかな。だから、女性は可愛いのだし猫も可愛い。そういう男もゴマンとはいるけれど……。『変哲』所収。(清水哲男)


December 26121997

 円鏡のラジオやせわし年用意

                           小沢昭一

用意は、新年を迎えるためにいろいろと支度を整えること。私などは何もしないが、それでも部屋の掃除などをはじめると大変だ。本の山をあっちへやりこっちへやり掃除機をかけたところまではよかったが、その本どもが元の場所に戻らない。どう積み重ねてみても、以前より広い場所を占めてしまう。寝る場所の確保さえ覚束なくなり、本は乱雑に積み上げたほうが狭いスペースですむという真理を発見するに至る。ところで、このときの作者は何をしていたのだろうか。ふと気がつくとつけっぱなしのラジオから、円鏡のせわしない話し声が聞こえてくる。ただでさえせわしないのに……と、さすがの小沢昭一も苦笑の図。これで三平でもからんだヒには、ラジオをぶん投げたくなってしまっただろう。『変哲』所収。(清水哲男)


January 0211998

 初湯中黛ジユンの歌謡曲

                           京極杞陽

和44年の作。銭湯の初湯は江戸期から二日と決まっているが、これは元日の家庭での朝風呂だろう。機嫌よく口をついて出てきたのは、黛ジュンの歌謡曲だった。なぜ、歌謡曲なのか。もちろん、昨夜見たばかりの「紅白歌合戦」の余韻からである。曲目は「雲にのりたい」あたりだろう。作者の京極杞陽(本名・高光)は、明治41年に子爵の家の長男として生まれた。豊岡藩主十四代当主。つまり、世が世であればお殿様である。大正の大震災で家族全員を失うという非運に見舞われたが、血筋はあらそえないというべきか、どこかおっとりとした雰囲気の句の多い人だ。この句も名句とは言いがたいが、読者をホッとさせる暖かさがある。同じ初湯の句でも、小沢昭一の「まだ稼ぐのど温めん初湯かな」となると、少々せち辛い。殿様の呑気な句には負けている。『花の日に』(1971)所収。(清水哲男)


May 1051998

 母の日の常のままなる夕餉かな

                           小沢昭一

集『変哲』より、69年5月作。あの小沢昭一である。評者にとっては困った時の「変哲(小沢昭一の俳号でもある)」頼み。変哲の句を出せば安心できるのだ。「母の日」といっても特別なことをするというわけではない(大体そんなもの昔はなかった)、いつもと同じ夕餉につき黙々と食べる。この句には見えない母が曲者ですな。同居の老母かもしれないし、子供たちの母、すなわち作者の老妻かもしれない。その方がむしろ味わい深い。「母の日」は、今年は本日十日。常日頃、92歳の母を老人ホームに入れたきりで、電話一本かけもしない親不幸息子の評者であるが、今年はお見舞にでも行こうかしら。(井川博年)


October 11101998

 疲労困ぱいのぱいの字を引く秋の暮

                           小沢昭一

感して大きくうなずくことは、よくある。が、共感するあまりに、力なく「へへへ」と笑ってしまいたくなるのが、この句だ。疲れた身体にムチ打つようにして文章を書いている最中に、何の因果か「ヒロウコンパイ」と書かねばならなくなった。ところが「困ぱい」の「ぱい」の字が思いだせない。大体のかたちはわかるのだが、いい加減に書くわけにもいかず、大きな辞書をやっこらさと持ちだして来て「こんぱい」の項目を「困ぱい」しながら探すのである。「疲労困ぱい」の身には厄介な作業だ。そんな孤独な原稿書きの仕事に、秋の日暮れは格別にうそ寒い……。ちなみに、季語「秋の暮」は秋の日暮れの意味であり「晩秋」のことではないので要注意(と、どんな歳時記を引いても書いてある)。ところで、この句は「紙」に文字を直接書きつける人の感慨だ。と、この句をワープロで写していた先ほど、いまさらのように気がついた。ワープロだと「こんぱい」と打てば「困ぱい」ではなく、すぐにぴしゃりと「困憊」が出てきてしまう。その「困憊」の「憊」をいちいち「ぱい」に直さなければならぬ「わずらわしさよ秋の暮」というのが、今の私のいささかフクザツな心持ちである。この句は、既に井川博年が昨年の11月に取り上げていた。さっき検索装置で調べてみて、やっと思いだしたというお粗末。ま、いいか。最近は「困ぱい」することが多いなア。『変哲』(1992)所収。(清水哲男)


February 1422005

 虎造と寝るイヤホーン春の風邪

                           小沢昭一

語は「春の風邪」。寒かったかと思うと暖かくなったりで、早春には風邪を引きやすい。俳句で単に「風邪」といえば冬のそれを指し、暗い感じで詠まれることが多いが、対して「春の風邪」はそんなにきびしくなく、どこかゆったりとした風流味をもって詠まれるケースが大半だ。虚子に言わせれば「病にも色あらば黄や春の風邪」ということになる。が、もちろん油断は大敵だ。軽い風邪とはいっても集中力は衰えるから、難しい本を読んだりするのは鬱陶しい。作者はおそらくいつもより早めに床について、「イヤホーン」でラジオを聞きながらうとうとしているのだろう。こういうときにはラジオでも刺激的な番組は避けて、なるべく何も考えないでもすむような内容のものを選ぶに限る。「次郎長伝」か「国定忠治」か、もう何度も聞いて中味をよく知っている広沢虎造の浪曲などは、だから格好の番組なのだ。ストーリーを追う必要はなく、ただその名調子に身をゆだねていれば、そのうちに眠りに落ちていくのである。そのゆだねようを指して、「虎造と寝る」と詠んだわけだ。病いの身ではあるけれど、なんとなくゆったりとハッピーな時間が流れている感じがよく出ている。それにつけても、最近めっきり浪曲番組が減ってしまったのは残念だ。レギュラーでは、わずかにNHKラジオが木曜日の夜(9.30〜9.55)に放送している「浪曲十八番」くらいのものだろう。『新日本大歳時記・春』(2000・講談社)所載。(清水哲男)


November 29112006

 湯豆腐や隠れ遊びもひと仕事

                           小沢昭一

く知られている「東京やなぎ句会」がスタートしたのは1969年1月。柳家さん八(現・入船亭扇橋)を宗匠として、現在なおつづいている。小沢さんもその一人で、俳号は変哲。「隠れ遊び」には「かくれんぼ」の意味があるが、ここはかつて「おスケベ」の世界を隈なく陰学探険された作者に敬意を表して、「人に隠れてする遊び」と解釈すべきだろう。(「人に隠れてする遊び」ってナアニ?――坊や、巷で独学していらっしゃい!)「遊び」ではあるけれども、いい加減な仕事というわけではない。表通りの日向をよけた、汗っぽく、甘く、脂っこく、どぎつい、人目を憚るひそやかな遊び、それを真剣にし終えた後、湯気あげる湯豆腐を前にして一息いれている、の図だろうか。それはまさに「ひと仕事」であった。酒を一本つけて湯豆腐といきたいが、下戸の変哲さんだから、あったかいおまんまを召しあがるのもよろしい。万太郎のように「…いのちのはてのうすあかり」などと絶唱しないところに、この人らしさがにじんでいる。小沢さんは「クボマンは俳句がいちばん」とおっしゃっている。第一回東京やなぎ句会で〈天〉を獲得した変哲さんの句「スナックに煮凝のあるママの過去」、うまいなあ。陰学探険家(?)らしい名句である。「煮凝」がお見事。これぞオトナの句。2001年6月、私たちの「余白句会」にゲストとして変哲さんに参加していただいたことがあった。その時の一句「祭屋台出っ歯反っ歯の漫才師」が〈人〉を三人、〈客〉を一人からさらい、綜合で第三位〈人〉を獲得した。私は〈客〉を投じていた。句会について、変哲さんはこう述べている。「作った句のなかから提出句を自選するのには、いつも迷います。しかも、自信作が全く抜かれず、切羽つまってシブシブ投句したのが好評だったりする」(『句あれば楽あり』)。まったく、同感。掲句は『友あり駄句あり三十年』(1999・日本経済新聞社)の「自選三十句」より。(八木忠栄)


December 02122007

 床に児の片手袋や終電車

                           小沢昭一

業柄、決算期には仕事を終えるのが夜遅くなり、渋谷駅で東横線の終電車に飛び乗ることも少なくはありません。朝の通勤ラッシュには及ばないまでも、終電車というのはかなりの混みようです。それも仕事帰りの勤め人だけではなく、飲み屋から流れてきた男女も多く、車内はがやがやとうるさく、本を読むこともままなりません。それでもいくつかの大きな乗換駅を過ぎるころには、車内の混雑もそれほどではなくなってきます。それまで、大きな体のサラリーマンの背中に押し付けられていた顔も、普通の位置に戻ることができました。前の席が空いて、ああ極楽極楽と座った目の先に、小さなかわいらしい手袋が落ちています。そういえばあの混雑の中に、子供を抱いた女性がいたなと、思い出します。もうどこかの駅で降りてしまったもののようです。おそらく、子供だけが、手袋が落ちた瞬間に「あっ」と思ったのでしょう。「おかあさん」と知らせるまもなく、母親は人ごみに押されるままに、電車を下りてしまったのです。終電車という熱気のなかの雰囲気、抱かれた子供の、落ちてゆく手袋への視線、子供を抱きかかえて乗り物に乗ることの不自由さ、などなど、さまざまな思いがない交ぜになって、この句は感慨深いものを、わたしに与えてくれます。『新選俳句歳時記』(1999・潮出版社)所載。(松下育男)


February 0422009

 スナックに煮凝のあるママの過去

                           小沢昭一

、昔の家はみな寒かった。ストーブのない時代、せいぜい炬燵はあっても、炬燵で部屋全体が温まるわけではない。身をすくめるようにして炬燵にもぐりこんでいた。まして火の気のない時の台所の寒さは、一段と冷え冷えとしていた。だから昨夜の煮魚の汁は、朝には鍋のなかで自然と煮凝になっていることが多かった。掲出句の煮凝は料理として作られた煮凝ではなく、ママさんが昨夜のうちに煮ておいた魚の煮汁でできた煮凝であろう。お店で愛想を振りまいているママさんの過去について、男性客たちはひそかに妄想をたくましくしているはずだが、知りようもない。知らないなりに、しみじみと煮凝をつついているほうが身のためです。まあ、女性としての変遷がいろいろとあったのでしょう。決して輝かしい一品料理ではなく、さりげない(突き出しの)煮凝に過去の変遷が重なって感じられる。ママさんの過去がそこに一緒に凝固しているようでもある。「煮凝」と「ママの過去」の取り合わせ、昭一ならではの観察に感服。小ぢんまりとしてアットホームなスナックなのだろう。この場合、「女将(おかみ)」ではなく、「ママ」という言葉のしゃれた響きがせつない。一九六九年一月の第一回やなぎ句会の席題句で、天位に入賞した傑作。その席で、ほかに「煮凝や病む身の妻の指図にて」(永井啓夫)「煮こごりの身だけよけてるアメリカ人」(柳家小三治)などの高点句もあった。小沢昭一『友あり駄句あり三十年』(1999)所収。(八木忠栄)


August 1782011

 夕顔やろじそれぞれの物がたり

                           小沢昭一

方に花が開いて朝にはしぼむところから、夕顔の名前がある。蝉も鳴きやみ、いくぶん涼しくなり、町内も静かになった頃あいに、夕顔の白い花が路地に咲きはじめる。さりげない路地それぞれに、さりげなく咲きだす夕顔の花。さりげなく咲く花を見過ごすことなく、そこに「物がたり」を読みとろうとしたところに、小沢昭一風のしみじみとしたドラマが仄見えてくるようだ。ありふれた路地にも、生まれては消えて行ったドラマが、いくつかあったにちがいない。「源氏物語」の夕顔を想起する人もあるだろう。夕顔の実は瓢箪。長瓢箪を昔は家族でよく食べた。鯨汁に入れて夏のスタミナ源と言われ、結構おいしかった。母は干瓢も作った。昭一は著作のなかで「横道、裏道、路地、脇道、迷路に入って、あっちに行き、こっちに行き、うろうろしてきたのが僕の道」と述懐しているけれど、掲句の「ろじ」には、じつは「小沢昭一の物がたり」が諸々こめられているのかもしれない。とにかく多才な人。掲句は句碑にも刻まれている。昭一は周知のように「東京やなぎ句会」のメンバーだが、俳句については「焼き鳥にタレを付けるように、仕事で疲れた心にウルオイを与えてくれる」と語る。他に「もう余録どうでもいいぜ法師蝉」という句もある。蕪村の句に「夕顔や早く蚊帳つる京の家」がある。『思えばいとしや“出たとこ勝負”』(2011)所載。(八木忠栄)


December 19122012

 寒月やさて行く末の丁と半

                           小沢昭一

月10日に小沢昭一さんが83歳で亡くなった。ご冥福をお祈りします。夏頃に体調を崩され、ラジオの長寿番組「小沢昭一の小沢昭一的こころ」は、このところ体調不良のため、再放送で名調子をセレクトして楽しませてくれていたから、病状が気に懸かっていた。かつて「余白句会」にゲスト参加していただいたこともあった。また個人的には講演をお願いしたり、著作をいつも送っていただいたりしていた。そうしたなかの一冊から、追悼のこころをこめて掲句を取りあげた。すさまじくも寒々とした冬の月をまず配しておき、必ずしも安定していない芸人の行く末を、冗談めかして博奕の丁半になぞらえたあたりは、いかにもこの人らしい。近頃のあやしげで物欲しそうな“芸ノー人”が、テレビや雑誌をにぎわせている図は寒々しいかぎりだけれど、小沢さんは甘辛を熟知した本物の芸人魂をもっていた。ちょいと(いや、大いに?)スケベだったところも、私などは敬愛し魅了されていた。芸人としての甘辛が、うまい具合にこの人の俳句をいい感じに湿らせていたように思われる。ご自分の句を「苦しまぎれの即席吟ばかり」と謙遜されていたが、「スナックに煮凝のあるママの過去」などは天下一品の名句であると確信する。合掌。『楽し句も、苦し句もあり、五・七・五』(2011)所載。(八木忠栄)


July 2072014

 夕立ちや小言もにぎる江戸かたぎ

                           小沢昭一

年前、惜しまれて逝去した俳優・小沢昭一の『俳句で綴る変哲半生記』(2012)所収です。序文に、「最初は俳句を口実に集まって、遊んでいるような心持ちでしたが、そのうちだんだん句作が面白くなってまいりました。それは、俳句を詠むことで、本当の自分と出会えることに気付いたからです。今までに詠んだ句を集めましたら、およそ四千にもなりました。改めて眺めてみますと、どの句にも『自分』というものがチラチラと出ているように思えます。特に『駄句』にこそ私らしさ が現れておりますので、あれこれ選ばず、恥ずかしながら詠んだ句全てを載せさせていただきました」。俳句を始めた昭和四十四年から、月順に配列されているので、タイトル通り、俳句で綴られた半生記です。掲句は平成九年七月の作。行きつけの店の外は夕立ちで、他に客が入ってくる気配もありません。主人の小言は、相変わらずわさびが利いて辛口です。にぎられたら即座に口にするのが江戸前のならい。主人がにぎった鮨を客の小沢はすぐに手にとり口にする。主人がにぎり客が手にとり口にする。あうんの呼吸で、これがテンポよくくり返されていたと想像します。主人は江戸っ子ですから、舌の切れ味がよい。浅草橋で売っている佃煮のような塩っ辛い味に親しんでいるからでしょう。夕立ちも、小言 も、にぎる手ぎわもそれぞれみな短くて、これもこの句が小気味よい理由です。なお、「夕立ちや」で切ることで、外界との遮断を表して、主人と客との距離がはっきりしてきます。(小笠原高志)


December 31122014

 なにはさてあと幾たびの晦日蕎麦

                           小沢昭一

成17年12月の作。昭一はこの年76歳で、元気そのものだった。同年6月の新宿末広亭の高座に、初めて10日間連続出演して話題になった。連日満員の盛況だった。私は23日に聴いた。演題を「随談」として、永六輔の顔がいかに長いか、そのほか愉快な談話で客を惹きつけた。最後は例によって、ふところからハーモニカを取り出しての演奏になった。笑いあふれる高座だった。ところで、「晦日蕎麦」の風習は今もつづいているようで、12月になると、蕎麦屋には「年越し蕎麦のご予約承ります」というビラが貼り出される。私も大晦日には新潟風のいろんな料理をつついて酔っぱらったあげく、いつも蕎麦を食べてから沈没するのが恒例となっている。齢を重ねれば、誰しも「あと幾たび」とふと考えることが増えるのは当たり前。なにも「晦日蕎麦」に限ったことではない。他人事ではない詠みっぷり、さすがに昭一らしい。「なにはさて」という上五がうまい。氏はその後、(計算では)亡くなる年まで七回「晦日蕎麦」を食したことになる。掲出句とならんで「黄泉路川(よみじがわ)小巣越すも越さぬも春の風」がある。『俳句で綴る変哲半世紀』(2012)所収。(八木忠栄)


May 0152015

 囀りや野を絢爛と織るごとく

                           小沢昭一

鳥たちは春が来ると冬を越した喜びの歌を一斉に唄う。それぞれの様々な声は明るく和やかである。折しも芽生えた若葉の色彩と相まって野は誠に錦織なす絢爛さを醸しだす。こうした雰囲気に満ちた山野に身を置けばとつぷりと後姿が暮れていたお父さんの心にも春がやって来てしまう。お父さんもまた織り込まれた天然の一部となって「あは」と両手を広げる。本誌では小沢昭一100句としての特集であるが、所属した東京やなぎ句会では俳号を変哲という。他に<父子ありて日光写真の廊下かな><春の夜の迷宮入りの女かな><ステテコや彼にも昭和立志伝>など小沢節が並ぶ。「俳壇」(2013年5月号)所載。(藤嶋 務)


December 23122015

 思い出は煮凝ってなお小骨あり

                           下重暁子

い出が煮凝る、とはうまい! なるほど、甘い思い出も辛い思い出も、確かに煮凝みたいなものと言えるかもしれない。しかも「小骨」のある煮凝であるから穏やかではない。この「小骨」はなかなかのクセモノ、と私は読んだ。読む者にあれこれ自由な想像力を強いずにはおかない。小骨。それはうら若き美女がそっと秘めている思い出かもしれない。いや、熟年婦人のかそけき思い出かもしれない。さて、私などが子どものころ、雪国では夕べ煮付けて鍋に残したままのタラかカレイの煮汁が、寒さのせいで翌朝には煮凝となった。そんなものが珍しく妙においしかった。現在の住宅事情でそんなことはあるまい。酒場などで食すことのできる煮凝は、頼りないようだがオツなつまみである。「煮凝」と言えば、六年前の本欄で、私は小沢昭一の名句「スナックに煮凝のあるママの過去」を紹介させていただいた。暁子の俳号は郭公。「話の特集句会」で投じられた句であり、暁子は学生時代、恩師暉峻康隆に伊賀上野へ連れて行かれたことが、俳句に興味をもつ契機になったという。歴代の名句を紹介した『この一句』という著作がある。他に「冬眠の獣の気配森に満つ」という句がある。矢崎泰久『句々快々』(2014)所載。(八木忠栄)




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