永末恵子の句

July 2671997

 全員に傘ゆきわたる孤島かな

                           永末恵子

人島に大勢で漂着して、まずは手際よく全員に傘が配られた。これでとりあえず雨露だけはしのげるわけだが、なんだか変だ。もっと先に、配布すべき何かがあるような気がする。でも、それが何なのかは、なかなか浮かんでこない。全員が傘を手にしてポカーンとしている様が、なんとも滑稽だ。孤島漫画のコレクターだった星新一さんに、たくさん見せていただいたことがあるが、ポカーンとしたものにいちばん味わいがあった。この句も、立派な漫画になっている。無季。「ミルノミナ」(第2号・97年7月)所載。(清水哲男)


June 3062001

 小数点以下省略のかきつばた

                           永末恵子

っきりと咲いた「かきつばた(燕子花・杜若)」の姿を、これまたすっきりと「小数点以下省略」と捉えた句。花の美しさよりも、剣状の葉とともにある形状のくきやかさに注目している。よく混同される「あやめ」は、花に網状の文様があるので、作者のウイットを援用すれば、小数点以下三桁か四桁くらいの感じがする。小数点といえば、学校で教える円周率(Π)の値が「小数点以下省略」されることになったという。無茶な話だ。亡国の数学教育だ。「省略」したのは、計算がしやすいからだろう。たしかに従来の「3.14」だって、アバウトと言えばアバウトではある。で、どうせアバウトなのだから、計算が簡便な「3」にしちまえという理屈は、しかし教育的に筋が通らない。百歩ゆずっても、単なる「3」ではなく「3.0」と小数点の存在を明確にしておかないと、円周率の本義を理解できなくなるではないか。この事態を皮肉った小沢信男の文章がある(「るしおる」43号・2001)。「円に内接する正六角形の6辺の和は、半径×6=直径×3=円周。すなわち真ん丸であることは正六角形にほかならなくなってしまった。(中略)かねて自主規制のつよい国民性なもので、丸顔のやつなどはだんだんとがった顔つきになる。ついにある日、日の丸の旗が、日の六画旗に改められた。……」。小沢さんによれば、横綱の武蔵丸も「武蔵六角」になり、駅前のマルイも「ロッカクイ」となる羽目に。『留守』(1994)所収。(清水哲男)

[付言]私の不勉強で、上の記述に不適当な部分がありました。読者よりご教示いただいた『小学校学習指導要領、第2章「各教科」、第3節「算数」の「第5学年」』には、「円周率としては3.14を用いるが,目的に応じて3を用いて処理できるよう配慮する」と書かれています。ただ、目的がどうであれ、私は単なる「3」には反対です。


July 2972001

 炎天下おなじ家から人が出る

                           永末恵子

らぎらと灼けつくような日盛りの通りだ。人影もない。すると、とある家から「人」が出てきた。そして「おなじ家」から、また人が出てきた。ただそれだけのことなのだが、作者はなんだか不意をつかれたような気持ちになっている。ひとりだけならば、さほど何も感じなかったろう。つづいてもうひとり出てきたことで、この「炎天下」に何用かと、思わずも出てきた「人」たちにではなく、その「家」のほうに、不思議なものでも見るような視線を走らせたにちがいない。つまり、その「家」の事情に関心が動いたのだ。すなわち、いま止むを得ずに「炎天下」にいる自分の事情以上の事情があるような気がしてしまったのである。私には、句の全景が白日夢のように写る。あるいは、無声映画の露出オーバーの一シーンでも見ているような感じだ。真っ白な道のむこうに建つ真っ黒な家から、真っ黒な人影がぽろりぽろりと出てくる無音の世界……。炎天、ここに極まれり。作者の出発は自由詩だったと聞くが、自由詩では書けない世界をちゃんと知っている人ならではの「俳句」だとも思った。『留守』(1994)所収。(清水哲男)


June 2962003

 ふりかけの音それはそれ夕凪ぎぬ

                           永末恵子

語は「夕凪(ゆうなぎ)」で夏。海辺では、夏の夕方に風が絶えてひどい暑さになる。瀬戸内海の夕凪はとくに有名で、油凪といういかにも暑苦しげな言葉があるほどだ。私は海の近くに暮らしたことがないので、生活感覚としての夕凪は知らない。若い頃に出かけたあちちこちの海岸での、わずかな体験のみである。ただじいっとしているだけで汗が滲み出てくる、あのべたっとした暑さには、たしかにまいった。たいていは民宿に泊まったから、掲句を読んだ途端に、民宿の夕飯時を思い出してしまった。民宿の夕飯は早い。すなわちまだ明るい時間で、ちょうど夕凪のころだ。当時はどこの民宿に行っても、テーブルに「ふりかけ」の缶がどんと置いてあったような……。出てきたおかずだけでは到底足らない食欲旺盛な若者用だったのか、それとも逆に食欲の湧かない人がなんとか飯を食べるためのものだったのか。冷房装置なんて洒落たものはなかったから、じっとりとした暑さのなかでの食事はたまらなかったなあ。句はそんなたまらなさを、さらさらした「ふりかけの音」との対比で表現している。触覚ではなく聴覚を持ちだしてきたところが面白い。センスがいい。しかし、いかに音がさらさらしていたところで、本当に「それはそれ」でしかないのであり、げんなりしている作者の様子が目に浮かぶようだ。可笑しみが、そこはかとなく漂ってくる。『ゆらのとを』(2003)所収。(清水哲男)


October 05102003

 足場から見えたる菊と煙かな

                           永末恵子

ういう句は好きですね。高い「足場」に登って見渡したら「菊と煙」とが見えた。ただそれだけのことながら、よく晴れた秋の日の空気が気持ち良く伝わってくる。工事現場の足場だろうか。ただし、登っているのは作者ではない。作者は、登って仕事をしている人を下から見上げている。高いところに登れば、地面にいては見られないいろいろなものが一望できるだろう。あの人には、いま遠くに何が見えているのか。と、ちらりと想像したときに、作者は瞬間的に「菊と煙」にちがいないと思ったのだ。そうであれば素敵だなと、願ったと言ってもよい。菊と煙とは何の関係もないけれど、理屈をつければ菊は秋を代表する花だし、立ち昇るひとすじの煙ははかなげで秋思の感覚につながって見える。でも、こんな理屈は作者の意にはそぐわないだろう。作者は、もっと意識的に感覚的である。だから読者が感心すべきは、見えているはずのいろいろなものから、あえて菊と煙だけを取りあわせて選択したセンスに対してだ。ナンセンスと言えばナンセンス。しかし、このナンセンスは作者のセンスの良さを明瞭に示している。試みに、菊と煙を別のものに置き換えてみれば、このことがよくわかる。むろん私はやってみたけれど、秋晴れの雰囲気を出すとなると、「菊と煙」以上のイメージを生むことは非常に難しい。ただ工事現場を通りかかっただけなのに、こんなふうに想像をめぐらすことのできるセンスは素晴らしいというしかない。羨ましいかぎりだ。もう一句。「秋半ば双子の一人靴をはく」。いいでしょ、このセンスも。『ゆらのとを』(2003)所収。(清水哲男)


August 1782006

 天の川由々しきことに臍がある

                           永末恵子

気の冴えた田舎の暗闇に初めて天の川を見たのは、三十近くになってからだった。夜空の中央に白っぽく明るんでいる帯が天の川だと教えられたときには「MilkyWay」の命名の妙に感じ入ったものだった。が、同時に頭上の銀河は想像していたきらきらしさにはほど遠く、その落差にちょっとがっかりもした。永末の句は言葉の展開に、ふっと虚をつかれるような意外性がある。俳句とともに連句もこなす作者は、付けと転じの呼吸から俳句の上五から中七座五へと綱渡る感覚を磨いたのだろうか。予想のつかない言葉の転がりに読み手がどのぐらい丁寧に付き合ってくれるか定かではないが、それもお好みのままに、と言った淡白さが持ち味に思える。中天にかかる「天の川」を思う気持ちは「由々しきことに」と普段使わぬ古風な言葉に振りかぶられ、身構える。そこに座五で「臍がある」と落とされると、なぁんだ、と気が抜ける同時に臍があること自体が由々しきことのような不思議な感触が残る。頭上に流れる壮大な天の川から身体の真ん中にある臍へ。その引き付け方に滑稽な現実味が感じられる。『借景』(1999)所収。(三宅やよい)




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