1997ソスN7ソスソス15ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

July 1571997

 桑の実に顔染む女童にくからず

                           飯田蛇笏

日のように俳句を読んでいて思うことは、私たちの生活がいかに自然と離れてしまったかということである。そのことを、楽天的な自然信奉者のように歎くのではない。そんなわがままを言う資格は、私にはない。みずからの暮らしを省みれば瞭然である。ただ、このような句を懐古的に捉えなければならないのが口惜しい。桑の実の美味を言い、液汁が顔についたらこすったくらいでは消えなかった経験を述べることは可能だ。が、現実に読者の周辺に桑の木がほとんど存在していない以上、語り手の私はそこで宙に浮いてしまう。桑の実の汁が顔についているのにも気がつかないで、活発に作者に話しかけてくる女の子。その愛らしさ。桑の実を知る者には、解説や鑑賞は不要であり余計なお世話なのである。(清水哲男)


July 1471997

 珍しいうちは胡瓜も皿に盛り

                           作者不詳

戸中期の川柳。胡瓜(きゅうり)は夏が旬で、初物はかくのごとくに珍重された。だが、それも束の間で、だいたいが見向きもされなかった食べ物らしい。なにせ、とてつもなく苦かったからだ。庶民の食卓にさえ、のぼることは稀だったという。そういえば、私が子供だった昭和二十年代になっても、ていねいに皮をむかないと、とてもじゃないが苦くて食べられない品種もあった。貝原益軒は「瓜類の下品なり」と『菜譜』に書き、「味よからず。かつ小毒あり」と追い討ちをかけている。したがって、江戸の人はこの句ににやりとできた。でも、これからの時代の人には、この作がなぜ川柳なのかもわからなくなってしまうのだろう。『俳風柳多留』所収。(清水哲男)


July 1371997

 船内に飛んでをりしは道をしへ

                           清崎敏郎

供のころは一里の道を通学していたので、この虫にはお世話になった。というよりも、退屈しのぎによく遊んでもらった。人が近づくと、飛び上がって少し先へ行く。道にそって、同じ動作を何度もくりかえす。その様子があたかも道を教えているように見えるので、「道をしへ」という。身体に細かい斑点があることから、正式には「斑猫(はんみょう・たいていのワープロでは一発変換されるほどの有名虫)」と呼ぶ。しかし、さすがの「道をしへ」も、船のなかでは役に立たない。水先案内人にはなれるわけもない。ただ習性で飛んでいるのだけれど、そんな姿に作者は苦笑している。時と場所を得ないと、人間にもこういうことは起きそうである。『東葛飾』所収。(清水哲男)




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