1997N620句(前日までの二句を含む)

June 2061997

 交響楽運命の黴拭きにけり

                           野見山朱鳥

鳥はいつも病気がちで、人生の三分の一くらいを寝て暮らした。したがって、自分の人生や運命に対しては過敏なほどに気を配り反応して、多くの優れた句を残している。虚子は「異常な才能」と言っているが、その通りだろう。そんななかで、この句は一瞬のやすらぎを読者に与える。戦後間もなくの作品だから、ベートーベンの「運命」のレコードはSP盤だ(何枚組だったろうか)。ひさしぶりに聴こうとしたら、長い間針を落とさないでいたので、黴(かび)が生えてしまっていた。それをていねいに拭き落しながら、いつしか作者はみずからの運命の黴を拭いているような思いにとらわれたということである。私は深刻には受け取らず、このときに朱鳥が思わずも苦笑した様子を思い描いた。あえて言うのだけれど、俳諧ならではの滑稽味がにじんでいる作品だと思いたい。『天馬』所収。(清水哲男)


June 1961997

 他郷にてのびし髭剃る桜桃忌

                           寺山修司

桃忌(おうとうき)は6月19日。作家太宰治の忌日。太宰は青森生まれ。昭和初期一番の人気作家となるが、昭和23年玉川上水で心中。享年39歳。墓は三鷹市下連雀の禅林寺にあり、その墓前で毎年盛大な桜桃忌がとり行なわれる。死ぬ前に伊藤左千夫の「池水は濁りに濁り藤なみの影もうつらず雨ふりしきる」の歌を残した話は名高い。今は梅雨の最中。この句は同じ青森出身の鬼才寺山修司が太宰を詠んでいることで興味を引く。おそらくは十代の句であろう。昭和後期に八面六臂の活躍をした寺山修司は、昭和58年5月4日、杉並阿佐谷の川北病院で死去。享年47歳。墓は八王子高尾霊園にある。桜桃忌はともかく、今度、寺山さんの墓参りにでも行くか。(井川博年)

[編者註]「桜桃忌」の命名は、太宰と同郷で入水当時三鷹に住んでいた直木賞作家・今官一(こん・かんいち)による。
没後出版された『想い出す人々』(津軽書房・1983)に、こうある。

 太宰の一周忌を終えて、伊馬春部と出て来ると、禅林寺の山門へ、パラパラとさくらの実が落ちてきた。
  伊馬君とぼくは、その実をひろった。マッチ棒ほどの茎のついた、緑色の小さな実だった。
「これだ」とぼくは呟き「桜桃忌」といった。
「いいねえ」と伊馬君が答えた。
「桜桃忌」の由来である。
 太宰の三回目の命日から、「桜桃忌」といわれるようになった。(中略)ぼくにしては、あれやこれや、桜桃忌のために骨を折ったつもりだが、なにひとつ報いられていない。近頃では、ぼくのほうが門外漢の感じになってしまった。……


June 1861997

 大阪を離るる気なし鱧料理

                           下村非文

(はも)料理は、関西が本場。こんな気持ちの人がいても不思議ではない。いまでこそ東京でも鱧を出す店は増えてきたようだが、長い間、関東人は鱧をかえりみないできた。理由は知らない。そういえば小津映画に、笠智衆や中村伸郎などが、中学時代の恩師である東野英次郎(いまはしがないラーメン屋の親父という設定)を小料理屋に招待してもてなすという場面があった。そこに出てくるのが鱧料理。食べはじめた東野が突然に箸を止めて「こりゃあ、うまい。これは何だ」と問いかけるシーンが忘れられない。「センセイは、鱧も食ったことねえんだ」と、ひそひそ声のいまや功なり名とげたかつての教え子たち……。何を食べ何を食べないできたかで、その人の来歴が知れてしまう。そういうことがあることを、小津安二郎はさりげなく、しかし鋭く描いていた。(清水哲男)




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