1997N613句(前日までの二句を含む)

June 1361997

 寫眞の中四五間奥に薔薇と乙女

                           中村草田男

い前書きがある。すなわち自句自解となっている。「佐藤春夫氏に『淡月梨花の歌』なる詩作品あり。想ふ人の幼き頃の寫眞を眺めて、『かゝる頃のかゝる姿を見し人ぞうらやまし』との意味を詠へりと記憶す。我も亦、家妻十九歳、初めての演奏會を終へしまゝの姿にて庭隅に佇ちて撮せる寫眞一葉、そを取出でゝ眺めつゝ人の世の時の經過の餘りにも早きを歎ずることあり」。敗戦後一年目の夏の句。空襲のない平和の味を噛みしめているような句だ。そして、同時期のこの句もまた微笑ましい。「童話書くセルの父をばよじのぼる」。セルは薄い和服地。オランダ語のsergeを「セル地」と読んで「セル」になったという。『来し方行方』所収。(清水哲男)


June 1261997

 雨音の紙飛行機の病気かな

                           小川双々子

院中の作者が、たわむれに手元の紙で飛行機を折って飛ばしてみた。よく飛んだかどうかは問題ではない。病気だからそんな振る舞いに出たのだし、病気だから雨の音も明瞭に聞き取れている。それだけのことを言っている。ここにたゆたっているのは、作者の諦念だ。何度も目先に希望を見い出そうとした果ての諦めの心である。いまはストレートに「病気かな」と言い放てるほどに、その心は定まっているのだし、自分の病気を引き受け、冷静に見つめようとしている。みずからを「紙飛行機」に見立てているとも読めるが、同じことだろう。決して、鬱陶しいだけの句ではない。『異韻稿』(97年6月・現代俳句協会刊)所収。(清水哲男)


June 1161997

 箸先に雨気孕みけり鮎の宿

                           岸田稚魚

料理を出す宿とも読めるが、あまり面白くない。「孕(はら)みけり」のダイナミズムを採って、私は鮎釣りが解禁になる前夜の宿での句と読む。明日は、まだ暗いうちから起きだして、みんな川へと急ぐ。夕餉の膳を前に仲間達と鮎談義に花が咲くなかで、箸先にはかすかににじむように雨の気配が来ている。経験に照らして、こういうときにはよく釣れる。そう思うと、明日の釣りへの期待と興奮が静かにわいてこようというものだ。箸先を竿の先に擬する微妙な照合に注目。ところで、作者の成果はどうだったろうか。まったくの坊主(「釣れない」という意味の符牒)となると、もういけない。「激流を鮎の竿にて撫でてをり」(阿波野青畝)ということにもなってしまう。(清水哲男)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます