1997N68句(前日までの二句を含む)

June 0861997

 米の香の球磨焼酎を愛し酌む

                           上村占魚

るで「球磨焼酎」の宣伝みたいだ。私は日頃焼酎を飲まないのでわからないが、好きな人には「その通りっ」という句であり、すぐに自分でも飲みたくなる句なのだろう。無技巧が逆に鮮やかで、いかにもウマそう。こういう句は、もっとあってもよいと思う。このような各地の名産を詠んだ句のアンソロジーを、どなたか編集してくれませんかね。焼酎といえば、生まれてはじめて飛行機に乗って奄美大島へ行ったことを思い出す。「文芸」(現在の「文藝」)の編集者として、開高健さんのお伴で島尾敏雄さんを訪ねる旅だった。仕事が終わってから、西部劇に出てくるようなたたずまいの町のバーに入ったら、何も注文しないのにサッと焼酎が運ばれてきた。びっくりしながら大いに酩酊したが、若さのおかげで翌朝はケロリとしていられた。開高さんも島尾さんも、酒飲みの達人だったから、もちろんケロリ。既にお二人とも鬼籍に入られたのが、なんだか夢のようである。(清水哲男)


June 0761997

 庭土に皐月の蝿の親しさよ

                           芥川龍之介

(はえ)などという虫は、普段はただ疎ましいだけだが、陰暦・皐月(さつき)のいまごろに出始めの蠅を見かけたりすると、思いがけない親愛感がわいてきたりする。しかも、作者が機嫌よく庭に出ているとなれば、頃合いは梅雨の晴れ間か。だとすればますます、疎ましい虫に対しても親しい目つきになろうというものだ。自然の持つ素朴な輝きとしての庭土や蠅に、天才的小説家は素直な親しみを覚えている。が、一方で、この感性はかなりオジン臭い。言い換えれば、芥川は俳句表現においてもまた、若くして老成した目の持ち主であったということになる。しかし、作者が芥川だから油断はならない。あえてオジン的発想をねらった句とも考えられる。才気煥発な人の俳句は、いつも裏がありそうで、読むのがしんどい。(清水哲男)


June 0661997

 木いちごの落ちさうに熟れ下校どき

                           大屋達治

の旬(しゅん)は、野生や栽培物を問わず多く六月だ。農家だった私の家でも普通の苺は育てていたが、それよりも山野に自生している木苺のほうが美味だったように思う。黄金色に熟れた木苺は、酸味がなくて極上に甘かった。木の刺に用心しながら空の弁当箱いっばいに摘んで戻るのが、それこそ下校時の楽しみだった。句の「落ちさうに熟れ」が、いかにも木苺らしさを巧みに表現している。昔から木苺の句はたくさん詠まれてきてはいるが、木苺と子供の姿とをセットにした作品を他に知らない。不思議なことだ。サトウ・ハチローの『ジロリンタン物語』ではないけれど、大人の管理の外にある(なかには管理の内のものも含めて)ウマいものと子供とは、いつだって必ずひっついてきたものであるというのに……。それはともかく、どなたか、最近になって木苺を口にしたという「果報者」はおられますでしょうか。(清水哲男)




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