季語が六月の句

June 0161997

 六月の氷菓一盞の別れかな

                           中村草田男

菓(ひょうか)にもいろいろあるが、この場合はアイスクリーム。あわただしい別れなのだろう。普通であれば酒でも飲んで別れたいところだが、その時間もない。そこで氷菓「一盞(いっさん)」の別れとなった。「盞」は「さかずき」。男同士がアイスクリームを舐めている図なんぞは滑稽だろうが、当人同士は至極真剣。「盞」に重きを置いているからであり、盛夏ではない「六月の氷菓」というところに、いささかの洒落れっ気を楽しんでいるからでもある。「いっさん」という凛とした発音もいい。男同士の別れは、かくありたいものだ。実現させたことはないけれど、一度は真似をしてみたい。そう思いながら、軽く三十年ほどが経過してしまった。(清水哲男)


June 0162000

 六月の樹々の光に歩むかな

                           石井露月

月(1873-1928)は子規門。主として秋田で活躍した俳人だ。したがって、句の「六月」は東北の季節感で読むべきだろう。東京あたりで言えば、清々しい五月の趣きである。技巧も何も感じられない詠み方ではあるけれど、けれん味なくすっと詠み下ろしていて気持ちがよろしい。当月は梅雨期を控えていることもあり、どこか屈折した句の多いなかで、かくのごとくにすっと詠まれると意表を突かれた感じさえしてしまう。ただし、実はこの句は露月のなかでも異色の作品なのである。本領は、漢詩文的教養の上に立った男っぽい詠み方にあった。たとえば「赤鬼の攀じ上る見ゆ雲の峰」だとか「雷に賢聖障子震ひけり」など。心情を直截に表現する俳人ではあるが、大いなる技巧派でもあったことがわかる。これらの句に比べると、掲句のリリシズムは、とうてい同じ作者の懐から出てきたとは思えない。つまり、待望の「六月」にふっと技巧を忘れちゃった……ような。それほどに東北人にとっての「六月」は、待ちかねている月だということだろう。露月の生前に、句集はない。常日頃、「句集に纏めるのは、我輩の進歩が止まったとき」と言っていたそうだ。昭和に入ってから亡くなっているが、生涯明治の男らしい雄渾な心映えに生きた人物だったと思う。『露月句集』(1931)所収。(清水哲男)


June 1662000

 六月の水辺にわれは水瓶座

                           文挟夫佐恵

の星座も「水瓶座」。嬉しくなってここに拾い上げてはみたものの、はて、なぜ「六月の水辺」なのか。肝心要のところが、よくわからない。六月は梅雨季ということもあり、たしかに水とは縁がある。が、句の情景は雨降りのそれではないだろう。むしろ、良い天気の感じだ。ならば、梅雨の晴れ間の清々しさを「水辺」に象徴させたのだろうか。陽光が煌めく水を見つめながら、ふと自分が水瓶座の生まれであったことを思い出した。そこで「水辺」に「水瓶」かと、その取り合わせにひとり微笑を浮かべている……。そんな思いを詠んだ句のような気がしてきたのだが、どんなものだろう。私の詩集に『水甕座の水』というのがあって、ときどき「どんな意味か」と聞かれる。聞かれると困って、いつも「うーん」と言ってきた。正直言って、なんとなくつけたタイトルなのだ(同名の詩編はない)。この詩集について、飯島耕一さんに「水浸しの詩集だ」と評されたことがあったけど、なるほど、言われてみるとあちこちに「水」が出てくる。企んだつもりはないのだが、結果的に「水浸し」になっていたのだった。もしかすると句の作者にも格別な作意はなく、自分のなかで、なんとなく「六月の水辺」との折り合いがついているのかもしれない。星座占いに関心はないが、「水瓶座」の生まれはなんとなく「水」に引き寄せられるのだろうか。他の星座生まれの方の見解を拝聴したい。「俳句研究年鑑」('95年版)所載。(清水哲男)


June 2762000

 夢に見し人遂に来ず六月尽く

                           阿部みどり女

句集に収められているから、晩年の病床での句だろうか。夢にまで見た人が、遂に現れないまま、六月が尽(つ)きてしまった。季語「六月尽(ろくがつじん)」の必然性は、六月に詠まれたというばかりではなく、会えないままに一年の半分が過ぎてしまったという感慨にある。作者はこのときに九十代だから、夢に現われたこの人は現実に生きてある人ではないように思える。少なくとも、長年音信不通になったままの人、連絡のとりようもない人だ。もとより作者は会えるはずもないことを知っているわけで、そのあたりに老いの悲しみが痛切に感じられる。将来の私にも、こういうことが起きるのだろうか。読者は、句の前でしばし沈思するだろう。同じ句集に「訪づれに心はずみぬ三味線草」があり、読みあわせるとなおさらに哀切感に誘われる。「三味線草」は「薺(なずな)」、俗に「ぺんぺん草」と言う。そして掲句は、こうした作者についての情報を何も知らなくとも、十分に読むに耐える句だと思う。「夢に見し人」への思いは、私たちに共通するものだからである。虚子門。『石蕗』(1982)所収。(清水哲男)


June 1562002

 六月の女すわれる荒筵

                           石田波郷

者が実際に見た光景は、次のようだった。「焼け跡情景。一戸を構えた人の屋内である。壁も天井もない。片隅に、空缶に活けた沢瀉(おもだか)がわずかに女を飾っていた」(波郷百句)。「壁も天井もない」とは、ちゃんとしたそれらがないということで、四囲も天井もそれこそ荒筵(あらむしろ)で覆っただけの掘っ立て小屋だろう。焼け跡には、こうした「住居」が点在していた。女が「六月」の蒸し暑さに堪えかねたのか、壁代わりの筵が一枚めくり上げられていて、室内が見えた。もはや欲も得もなく、疲労困ぱいした若い女が呆然とへたり込んでいる。句の手柄は、あえて空缶の沢瀉を排して、抒情性とはすっぱり手を切ったところにある。句に抒情を持ち込めば哀れの感は色濃くにじむのだろうが、それでは他人事に堕してしまう。この情景は、詠まれた一人の女のものではなく、作者を含めて焼け跡にあるすべての人間のものなのだ。哀れなどの情感をはるかに通り越したすさまじい絶望感飢餓感を、荒筵にぺたんと座り込んだ女に託して詠みきっている。焼け跡でではなかったけれど、戦後の我が家は畳が買えず、床に荒筵を敷いて暮らしていた。あの筵の触感を知っている読者ならば、いまでも胸が疼くだろう。『雨覆』(1948)所収。(清水哲男)


June 0162004

 六月を奇麗な風の吹くことよ

                           正岡子規

書に「須磨」とある。したがって、句は明治二十八年七月下旬に、子規が須磨保養院で静養していたときのものだろう。つまり、新暦の「六月」ではない。旧暦から新暦に改暦されたのは、明治六年のことだ。詠まれた時点では二十年少々を経ているわけだが、人々にはまだ旧暦の感覚が根強く残っていたと思われる。戦後間もなくですら、私の田舎では旧暦の行事がいろいろと残っていたほどである。国が暦を換えたからといって、そう簡単に人々にしみついた感覚は変わるわけがない。「六月」と聞けば、大人たちには自然に「水無月」のことと受け取れたに違いない。ましてや、子規は慶応の生まれだ。須磨は海辺の土地だから、水無月ともなればさぞや暑かったろう。しかし、朝方だろうか。そんな土地にも、涼しい風の吹くときもある。それを「奇麗(きれい)な風」と言い止めたところに、斬新な響きがある。いかにも心地よげで、子規の体調の良さも感じられる。「綺麗」とは大ざっぱな言葉ではあるけれど、細やかな形容の言葉を使うよりも、吹く風の様子を大きく捉えることになって、かえってそれこそ心地が良い。蛇足ながら、この「綺麗」は江戸弁ないしは東京弁ではないかと、私は思ってきた。いまの若い人は別だが、関西辺りではあまり使われていなかったような気がする。関西では、口語として「美しい」を使うほうが普通ではなかったろうか。だとすれば、掲句の「綺麗」は都会的な感覚を生かした用法であり、同時代人にはちょっと格好のいい措辞と写っていたのかもしれない。高浜虚子選『子規句集』(岩波文庫)所収。(清水哲男)


June 0162005

 六月の花嫁がかけ椅子古ぶ

                           安田守男

の上での「六月」は、すでに夏のなかばだ。仲夏の候。梅雨が控えてはいるものの、実際にもすべての風物が夏らしく変わっていく。「六月の花嫁」、すなわちジューン・ブライドはヨーロッパの言い伝えで、この月に結婚する女性は幸福になれるという。根拠には諸説あるそうだが、私は最も単純に捉えて、彼の地では六月がいちばん良い気候だからだろうと思っている。だとすれば、日本では春か秋に該当する。そんなこの国で、何も好き好んでこの蒸し暑い月に結婚式をあげることもないではないか。でも、そこはそれ、ブライダル・マーケットの巧みな陰謀もあってか、すっかりジューン・ブライドは定着してしまった感がある。何を隠そう(なんて、力を入れる必要もないけれど)、私も三十数年前の六月に挙式している。なぜ、六月だったのか。当時はまだジューン・ブライド神話も上陸しておらず、とにかく六月の式場は空いていて、料金も安かったという極めて実利的な理由からだった。案の定、当日は雨模様で蒸し暑かったのを覚えている。前置きが長くなったが、掲句は花嫁の褒め歌だ。匂うがごとき「六月の花嫁」が腰掛けると、式場の立派な椅子ですら、たちまちにして古びてしまう。それほどに、目の前の花嫁は若くて美しい……。というわけだが、この褒め方もなんとなく西欧風であるところが面白い。『新日本大歳時記・夏』(2000・講談社)所載。(清水哲男)


June 0462006

 鍵穴殖え六月の都市きらきらす

                           櫛原希伊子

語は「六月」。作者自注に「このころ、マンションというものがあちらこちらにできはじめ高速道路が走り、都市が拡張していった」とある。「このころ」とは、1965年(昭和四十年)である。東京五輪開催の翌年だ。普通の感覚からすれば、「六月」は雨の季節だから、「きらきら」しているはずはない。しかし当時の都市は、たしかに掲句の言うように、たとえ低い雲がたれ込めていようとも、発展していく活力が勝っていたので「きらきら」と輝いて見えたのだった。都市の膨張ぶりを、ビルの林立などと言わずに、「鍵穴殖(ふ)え」としたところも面白い。「このころ」の世相を思い出すために、当時流行した歌にどんなものがあったかを調べてみた。洋楽では何と言ってもビートルズだったが、日本の歌でヒットしたのは次のような曲だった。「女心の唄」(バーブ佐竹・♪ あなただけはと信じつつ 恋におぼれてしまったの)、「まつの木小唄」(二宮ゆき子・♪ 松の木ばかりが まつじゃない 時計をみながら ただひとり)、「兄弟仁義」(北島三郎・♪ 親の血をひく 兄弟よりも かたいちぎりの 義兄弟)、「二人の世界」(石原裕次郎・♪ 君の横顔 素敵だぜ すねたその瞳(め)が 好きなのさ)、「愛して愛して愛しちゃったのよ」(田代美代子・♪ 愛しちゃったのよ 愛しちゃったのよ あなただけを 死ぬ程に)、「女ひとり」(デューク・エイセス・♪ 京都大原三千院 恋に疲れた女がひとり)、「涙の連絡船」(都はるみ・♪ いつも群れ飛ぶ かもめさえ とうに忘れた 恋なのに 今夜も 汽笛が 汽笛が 汽笛が 独りぼっちで 泣いている)、「君といつまでも」(加山雄三・♪ ふたりを 夕やみが つつむ この窓辺に あしたも すばらしい しあわせが くるだろう 君の ひとみは 星と かがやき(略) しあわせだなあ 僕は君といるときが一番しあわせなんだ 僕は死ぬまで君をはなさないぞ いいだろう)、「知りたくないの」(菅原洋一・♪ あなたの過去など 知りたくないの)。とまあ、こんな具合で、歌もまた「きらきら」しており、まことに歌は世につれの感が深い。一方で、この年の暗い出来事としては、アメリカによるベトナム戦争への介入があった。だが、多くの人々に、この戦争の泥沼化への予感はまだなかったと思う。『櫛原希伊子集』(2000)所収。(清水哲男)


June 0562012

 六月や草より低く燐寸使ひ

                           岡本 眸

の生活で燐寸(マッチ)を使う機会を考えてみると、蚊取線香とアロマキャンドルくらいだろうか。先日今年初の蚊取線香をつけたが、久しぶりで力加減がわからず、何本も折ってしまった。以前は小さな家を「マッチ箱」とたとえたほど生活に密着し、あるいは「マッチ売りの少女」の売り物は、余分に持っていても使い勝手はあるごく安価な日常品としての象徴だった。その生活用品としてのマッチと認識したうえで、掲句の「草より低く」のなんともいえない余韻をどう伝えたらよいのだろう。煙草などの男の火ではない、女が使う暮らしのなかの火である。マッチは、煮炊きのための竈に、あるいは風呂焚きに、風になびかぬよう、静かな炎をつないでいく。そして、燃えさしとなったマッチの軸も、そのなかへと落し、鼻先に燃えるあかりを育てるのだ。幾世代にも渡って女の指先から渡してきた炎のリレーが自分の身体にもしみ込んでいるように、何本も失敗したマッチをこすった後の、つんと残る硫黄の匂いが懐かしくてならなかった。『流速』(1999)所収。(土肥あき子)




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