蟄」隱槭′譚憺オ題干縺ョ句

May 2451997

 襖除り杜鵑花あかりに圧されけり

                           阿波野青畝

っと読み下せた人は、なかなかの漢字通です。「ふすまとりさつきあかりにおされけり」と読む。大勢の客を迎える準備だろうか。部屋をブチ抜きにするために、襖を外したところ、杜鵑花(さつき)が満開の庭の明るい光がどっと入ってきて、思わず気圧されてしまったという構図。いかにも初夏らしい気分を的確にとらえた、見事な作品である。杜鵑花は「つつじ」の親戚だが、陰暦の五月に咲くので「さつき」となった。ところで、今週あたりから来月上旬にかけて、各地で「さつき展」が開かれる。今年は、桜からはじまって一般的に開花が早いので、あまり盛り上がらないのではないかと、これは関係者の話。(清水哲男)


May 3151999

 親切な心であればさつき散る

                           波多野爽波

っぱり、わからない。わからないけれど、しかし、なぜか心に残る句だ。俳句には、こういう作品がときたまある。心にひっかかる理由の一つは「親切な心」という詠み出しにあるのではないか。芭蕉以来三百有余年の俳句の歴史のなかで「親切」などという言葉で切り出した句は、他にないのではないか。しかも、何度読んでも、この「親切な心」の持ち主は不明である。でも、つまらない句とは思えない。なんだか、散る「さつき」に似合っている気がしてくるのだ。わからないと言えば、だいたいが「さつき(杜鵑花)」自体もよくわからない花なのであって、私には「さつき」と「つつじ」の違いは、いつまで経ってもこんがらがったままである。この句については、永田耕衣の文章がある。「軽妙だが永遠に重味づくユーモアがある。滑稽といい切った方が俳句精神を顕彰するであろう活機に富む。活機といってもどこまでも控え目で出さばらぬばかりか、何のテライもない。いわば嵩ばらぬリズムの日常性がいっぱいだ。軽味も重味もヘッタクレもない。融通無碍、イナそれさえもない日常茶飯の情動だろう」。うーむ、わかるようで、わからない。もとより俳句は、わからなければいけない文学ではないのであるが……。『湯呑』(1981)所収。(清水哲男)


May 1952005

 廃屋の内なる闇やさつき燃ゆ

                           山崎茂晴

語は「さつき(杜鵑花)」で夏。句景色は明瞭だ。誰も人の住んでいない(あるいは、誰も使用しなくなった)「廃屋」の周辺に、この夏も例年の通りに「さつき」が燃えるように咲いた。花の明るさが派手であるだけに、暗い廃屋との対比が鮮やかに感じられ、目に強い印象で焼きつけられる。そこで「内なる闇」に思いをいたせば、さまざまな想像がわいてきて、読者によっては廃屋にまつわる物語性を感じることもあるだろう。手法的に言って、景物のコントラストを強く意識させるべく詠まれた句だ。このように、多くの俳句は取り合わせの妙を大切にするから、おのずと作者は両者のコントラストの強弱ゃ濃淡を調節しながら詠むことになる。そしてその調節の具合は、変なことを言うようだけれど、デジカメのフルオート撮影のように、結局のところ作者各人の持って生まれた気質に依っているようである。デジカメにはそれぞれに癖があり、オートで撮るとよくわかる。あるメーカーのものはコントラストがいつも強く出るし、別のメーカーのものだといつも控えめであったりする。むろんどちらが良いというものではなく、使い手の好みに属する問題だ。そんな目で掲句の作者の詠みぶりを見ると、さつきと廃屋のコントラストの強さもさることながら、そこにもう一押し「内なる闇」を置いたことで、物事や物象の輪郭鮮明を好む人であるらしいと知れる。たった十七文字での表現ながら、作者の気質はかなり正確に反映されるということだ。面白いものです。『秋彼岸』(2003)所収。(清水哲男)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます