蟄」隱槭′辯輔ョ蟾」縺ョ句

May 2351997

 店じまひしたる米屋の燕の巣

                           塩谷康子

ソリン・スタンドで米を売る時代だもの、廃業に追い込まれる米屋があっても不思議ではない。事情はともあれ、店じまいしてガランとした米屋の軒先に、今年もまた燕がやってきた。何もかもきれいさっぱりと片づけて去った店の主人が、燕の住環境だけはそのまま残しておいたのだ。そんな店主の人柄が伝わってくる句。滅びと出立の対照の妙もある。私が若かったころは、引っ越しをするたびに米穀通帳(寺山修司が「米穀通帳の職業欄に『詩人』と記入する奴はいない、詩人は職業じゃないから」と、当時の雑誌に書いていたことを思い出す)を更新する必要があり、あちこちの米屋のお世話になった。どこの店にも独特の米糠の匂いが満ちており、どこのご主人も、人柄になぜか共通するところがあったような気がする。『素足』所収。(清水哲男)


May 2051999

 孤児たちに映画くる日や燕の天

                           古沢太穂

書に「港北区中里学園にて」とある。戦災孤児の収容施設かと思われる。楽しみにしていた巡回映画がやってくる日の、子供たちの沸き立つような喜びの気持ちが「燕の天」に極まっている。こうした施設にかぎらず、敗戦後の一時期、子供たちにとっての映画は「くる」ものであった。大都会ではどうだったのかは知らないが、私が通っていた村の学校にも、ときどき巡回映画がやってきた。そんな日は、嬉しくて授業にも身が入らない。昼食が終わると、みんなで机と椅子を教室の片側に寄せ、窓には暗幕がわりに社会科で使う大きな地図などを貼り付けて準備した。そこへ、16ミリ映写機とフィルムの缶を抱えたおじさんと先生が登場。拍手する子もいたっけな。おじさんはまず映写機の電源を入れ、シーツのようなスクリーンに向けて光を放ち、ピントを合わせる作業にかかる。僕らは、その段階から固唾をのんで見守ったものだ。そんなふうにして、数多くの映画を見た。谷口千吉の『銀嶺の果て』や黒沢明の『酔いどれ天使』といった大人向きの作品も、どういうわけか上映された。ラブ・シーンになると、先生があわててレンズの前を押さえていた。古沢太穂は共産党員で、苛烈な労働闘争の句も多いが、子供を見る目は限りなく優しかった。「巣燕仰ぐ金髪汝も日本の子」。「汝(なれ)」は米兵を父とする混血児である。『古沢太穂句集』(1955)所収。(清水哲男)


May 0152003

 燕の巣母の表札風に古り

                           寺山修司

司、十代の句。この人にしては、珍しく写生的で、情景のくっきりとした句だ。軒先に燕が巣を作った。子燕たちが鳴き立てているので、見るともなしに見やったというところか。当たり前のことながら、軒下には「表札」がかかっている。両者は、同時に視野の中にある。でも、たいていの感受性ならば、元気な子燕の姿に微笑して、表札などは気にも止めずに立去ってしまうだろう。たとえそこに、父親のいない家庭を示している「母の表札」がかかっていようともだ。平凡な日常にあって、親の名前の書いてある表札をしげしげと眺めるなど、少なくとも私には経験がない。だが、ここでしぶとく一粘りするのが修司少年の詩心なのである。元気な子燕と母親の表札との取りあわせから、何か普遍性のある物語が紡ぎ出せないものかと粘るのだ。この取りあわせ自体が、既に十分に物語性をはらんではいる。しかし、これを下手に読者に突き出すと、単に同情を買いたがっているかのような、ひどくあざとい句になってしまう。その臭みを消すためにはどうすればよいのかと、下五をだいぶ考えたのではなかろうか。で、しごく平凡に見える「風に古り」と置くことにした。故意に、凡庸と思われる言葉を置いたのである。これで取り合わせの臭みは消え、さりげない哀感が滲み出てくる仕掛けが完成したというわけだ。ま、こんなふうに句を分解して考えるのは悪趣味かもしれないが、掲句に限らず、さりげなさを演出する俳句のダンディズムは、おおかたこのような形をしているのだろうと思ったことである。『われに五月を』(1957)所収。(清水哲男)


June 1162013

 洗はれて馬の鼻梁の星涼し

                           鈴木貞雄

は栗毛や葦毛などの毛色とともに、顔や脚にある白斑が大きな特徴になる。額にある白斑を「星」と呼び、額から鼻先へ流れるそれを「流星」と呼ぶのは、いかにも颯爽とした馬に似つかわしい美しい名称である。乗馬を終えた馬は思いのほか汗をかいており、夏はクールダウンのため水をかけることもある。鞍を外し、水を浴び、全身を拭いてもらった馬は誰が見ても「あー、気持ちよかった」という表情をする。長い年月人間と関わってきた動物には、言葉はなくとも意思をやりとりできる術を心得ているのだろう。あるじの手入れの労に応えるように、洗い立てのつやつやした四肢を輝かせ、頭をぶるんとひと振りすれば、額の星がひときわ白く映える。それはまるで夏空にきらめく涼やかな星のように。〈てのひらに叩き木の芽を覚ましけり〉〈二番子にやや窶れたる燕の巣〉『墨水』(2013)所収。(土肥あき子)




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