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May 0751997

 噴水の頂の水落ちてこず

                           長谷川櫂

るほど、噴水のてっぺんの水は落ちてこない(ように見える)。「それがどうしたの」と言われても困るが、作者はそう観察したからそう詠んだまでで、句に過剰な意味を背負わせているわけではないだろう。でも、読者のなかには「引力の法則を抜け出た水の様子が、作者の精神的超越志向を表現している」と評する人もいる。そんなふうに読んでもいいけれど、おもしろくはない。こういう句は、そのまま受け取っておくにかぎる。この句を一度知ったら、噴水を見るたびに頂(いただき)の水の様子が気になってしまう。それでよいのである。『古志』所収。(清水哲男)


May 2952003

 噴水が驛の板前のごと頭あげ

                           竹中 宏

だまし絵
語は「噴水」で夏。何故、こんな絵を持ち出したかについては後述する。句の実景としては、「驛(駅)」の噴水が「頭(づ)」をあげたところだ。その様子が、多く下俯いて仕事をする「板前」職人がふっと頭を上げたように見えたと言うのである。という解釈は、実はあまり正しくない。問題は「驛の板前のごと」だ。実景は「驛に」であり、作者もそこから出発してはいる。だが、見たままをそのまま書いたのでは、この噴水の様子に接したときの自分の気持ちがきちんと表せない。「驛に」としたのでは、どこか不十分なのだ。そこで、強引に「驛の板前」と現実を歪めてみて、やっと自分の感覚に近くなったということだろう。実際には存在しない「驛の板前」を句中に置くことにより、何の変哲もない噴水の様子が異化され、作者にとってのリアリティが定着できたのだった。この方法は、サルトルの詩論に出てくる「バターの馬」と同様で、日常的には無関係なバターと馬とをくっつけることにより、そこにぽっと詩が浮き上がってくる。いままで見えなかった世界が、眼前に開けてくるのだ。作者は新しい句集の自跋で、アナモルフォーズという絵画図法について、熱心に述べている。美術の世界ではお馴染みの用語であるアナモルフォーズは、簡単に言うと「だまし絵」的な描画法を指す。この絵はハンス・ホルバインの『大使たち』(1533)で、アナモルフォーズというと決まって引き合いに出される有名な作品だ。さて、何が見えるのか。二人の男と雑多な器物は、誰にでもそのままに見える。が、注意深く見ると、絵の下方になにやら奇妙に傾いた板状のものがあることに気がつく。何だろうか、これは。と、いくら目をこらしてもわからない。わからないはずで、ホルバインはこの部分だけを正面からの視点で画いてはいないからだ。視点をずらして画面の右横あたりから見ると、くっきりと見えてくるものがある。はて、何でしょう。つまり、この絵で画家は、一つの視点から眺めただけでは世界の諸相や真実はとらえきれないと言っているのだ。アナモルフォーズを巡る議論は多々あって、とてもここでは紹介しきれないので、関心のある方はそれなりの書物を開いていただきたい。掲句に戻れば、「驛に」が正面からの視点だとすると、「驛の」が右横からのそれである。この二つの視点を、重ね合わせて同時に読者に差し出しているという見方が、私の解釈の出発点であった。『アナモルフォーズ』(2003・ふらんす堂)所収。(清水哲男)


June 1762004

 噴水の背丈を決める会議かな

                           鳥居真里子

語は「噴水」で夏。思わずクスリと笑いかけて、いや待てよ、これは大真面目な会議なんだなと思い直した。噴水の背丈をどれくらいにするかは、設計者の意図もあるだろうが、水不足などの外的条件も考慮しなければならない。会議を開いて、背丈を変更することも現実的にあり得ることだ。でも、なんとなく可笑しい。大の大人が何人も集まって、ああでもないこうでもないと長時間やり合う。傍目にはよほど深刻な問題を討議しているのかと見えるが、中味は何のことはない、噴水の背丈を何センチ縮めるかといった「問題」だった。なあんだ、というわけである。今度噴水の前を通りかかったら、この句を思い出してみたい。きっとじわりと、可笑しさがこみ上げてくるだろう。句の例に限らず、世の中にはどう転んでも、誰のためにもならないような会議が多すぎる。むろん、出席者にとってもだ。それも仕事のうちと割り切れればよいのだが、こんな会議に出るために生まれてきたんじゃねえやと、腹立たしくなる会議は私も何度も経験した。噴水の丈を決める会議のほうが、まだマシというような……。で、いつしか猛烈な会議嫌いになり、よほどの議題でもないかぎり逃げ回っていた時期もあった。俗に会議の多い会社はつぶれると言われたりするが、ある程度は真実を突いている言葉だろう。どうしようどうしようと集まること自体が、既に組織的動脈硬化が起きている証だからだ。が、掲句の舞台は、役所の公園管理課みたいなところだろうか。だったらつぶれる気遣いはないわけで、それだけ余計に始末が悪いと言える。『鼬の姉妹』(2002)所収。(清水哲男)


May 2352005

 噴水や戦後の男指やさし

                           寺田京子

語は「噴水」で夏。連れ立っていた「男」が、たまたま噴水に手をかざしたのだろう。ああいうものにちょっと手を触れてみたくなる幼児性は、どうも男のほうが強いらしい。それはともかく、作者はその人の「指」を見て、ずいぶんと「やさし」い感じを受けたのだった。そういえば、この人ばかりではなく、総じて「戦後の男」の指はやさしくなったとも……。男の指を通して、戦後社会のありようの一断面をさりげなく描いた佳句だ。男の指がやさしくなったのは、もちろん農作業など戸外での労働をしなくなったことによる。1950年代の作と思われるが、当時は「青白きインテリ」という流行語もあったりして、多くの男たちにはまだ「指やさし」の身を恥じる気持ちが強かった。たしか詩人の小野十三郎の自伝にも、自分の白くてやさしい感じの手にコンプレックスを持っていたという記述があったような気がする。ごつごつと節くれ立った指を持ってこそ、男らしい男とされたのは、肉体労働の神聖視につながるが、しかしこれはあくまでも昔の権力者に都合の良い言い草であるにすぎない。句はそこまでは言ってはいないけれど、男の指がやさしく写ることに否定的ではなく、ほっと安堵しているような気配がうかがえる。苛烈な戦争の時代を通り抜けた一女性ならではの、それこそやさしいまなざしが詠ませた句だと思う。『日の鷹』(1967)所収。(清水哲男)


June 0362006

 噴水や鞍馬天狗の本借りに

                           吉田汀史

語は「噴水」で夏。少年時代の思い出だろう。大佛次郎の『鞍馬天狗』は昭和初期、最初は大人向けの読み物としてスタートしたが、杉作少年を登場させたシリーズが「少年倶楽部」に連載されるや、子どもたちの間で大人気となり、単行本化された。その「本」を「借りに」行くわくわくする気持ちを、掲句は「噴水」の水のきらめきに照応させている。いまの子どもたち同士ではどうか知らないが、昔はよく本の貸し借りが行われていて、『鞍馬天狗』のような人気本になると、なかなか借りる順番が回ってこなかった。本はそれほど安くはなく、したがって貴重品だったのである。それがようやく借りられることになり、喜び勇んで相手の自宅まで出かけて行く。心が弾んでいるから、歩くうちに見える物がみな新鮮で奇麗に写る。普段はさして関心のない噴水も、今日は特別に美しく見えているのだ。ただ本を借りられるというだけで、これほどの喜びを覚える子どもの姿は、想像するだにいじらしいが、作者よりも年下の私にも、こういう時期が確かにあった。級友との頻繁な貸し借りをはじめ、村の若い衆には野球雑誌や古い講談本を借りるなど、一軒の書店もなかった村で本や雑誌を読むのに、貸し借りの相手のいることが、どんなにありがたかったことか。借りるためには、相手によっては多少卑屈になったこともあるけれど、そんなことはなんのその。それほどに本の魅力は強烈だった。また貸し借りとは別に、クラスの誰かが新しい雑誌を持ってくると、それを大勢で一度に読むということもやった。休み時間に私が読み役となって、みんなに聞かせたというわけだ。でも、この方法だと、聞いている連中には誌面が見えない。それでも構わず山川惣治の絵物語「少年王者」などを読みはじめると、サア大変。みんな絵が見たいものだから、私の机の周りは押すな押すなの状態になり、なかには私の背中によじのぼって覗き込む奴までがいて……。数年前のクラス会で、誰かがその話題を持ち出したとき、一瞬みんなの顔が「ああ」とほころび、いちように遠くを見るような表情になったのだった。俳誌「航標」(2006年6月号)所載。(清水哲男)


July 1272007

 噴水とまりあらがねの鶴歩み出す

                           宮入 聖

物をかたどった噴水はいろいろあるが、鶴の噴水で思い出すのは、丸山薫の「鶴は飛ぼうとした瞬間、こみ上げてくる水の珠(たま)に喉をつらぬかれてしまつた。以来仰向いたまま、なんのためにこうなったのだ?と考えている。」(『詞華集 少年』「噴水」より引用)という詩だ。この噴水は日比谷公園の池の真ん中にある鶴の噴水がモデルのようだ。写真を見ると大きな羽根を広げた仰向けの姿勢で細い嘴から水を勢いよく飛ばしている。掲句の「鶴」が日比谷公園の鶴か、作者の想像の産物なのかはわからないが、噴水が止まって歩き出すあらがね(租金)の鶴は、丸山薫の鶴のその後といった感じだ。詩を知らなくとも噴水が止まって動くはずのない鶴が歩き出すシーンを想像して楽しむだけでも充分かもしれないが、詩人が作り出した鶴のイメージをかぶせてみると、句の世界がより豊かになるように思う。垂直にほとばしる噴水のいきおいが急に止まったなら、全身を水に貫かれてしまった鶴も水から解き放たれ、重々しい一歩を前に踏み出しそうだ。栓をひねれば瞬時にして消えてしまう噴水のはかなさと金属の永続性。重さと軽さ。相反した要素を噛み合わせながら、静止と動きが入れ替わる白昼の不可思議な世界を描き出している。『聖母帖』(1981)所収。(三宅やよい)


June 0162008

 噴水に真水のひかり海の町

                           大串 章

つの視点を、この句から感じることができます。まずは首を持ち上げて、「見上げる」視点です。空へ向かって幾度も持ち上げられて行く噴水を、下から見上げています。おそらく公園の一角でしょう。歩いていたら突然目の前に水が現れる、ということ自体がわたしたちにはうれしい驚きです。それまでの時間がしっとりと湿ってくるような感じがするものです。その水を明るい空へ放り投げてしまおうと、初めて考えたのはいったい誰だったのでしょうか。もう一つの視点は、上空から町と、その向うに広がる海を「見下ろす」ものです。晴れ上がって、どこまでもすがすがしい空気に満ちた、清潔な町並みと、静かに打ち寄せる波が見えてきます。言うまでもなくこの句の魅力は、噴水が真水であることの発見にあります。そんなことは当たり前じゃないかという思いは、その後に海と対比されることによって、気持ちのよい納得に導かれるのです。理屈はどうあれ、透き通った二つの視点を与えられただけで、わたしは句に接するうれしさでいっぱいになるのです。『角川俳句大歳時記 夏』(2006・角川書店)所載。(松下育男)


July 2872009

 噴水にもたるるところなかりけり

                           中岡毅雄

近では各地で最高気温を更新するたび、噴水で遊ぶ子どもの映像が恒例になっているようだ。夏空へ広げられた清涼感あふれる噴水は、空気や地面を冷やすことで周囲の気温を下げたり、騒音を軽減する実用的な役割りのほか、水辺に憩うという心理的な安らぎを人々に与えるという。きらきらと水の粒を散らす噴水の柱は、どんなに太くあっても、当然壁のようにもたれることはできないのだが、掲句の断定にはおかしみより不安を感じさせる。しなやかで強靭に見えていた噴水が一転して、放り出された水の心もとなさをあらわにするのだ。人工的に作られた装置によって、身をまかせている水の群れが、健気な曲芸師にも見えてくる。現在、日本を含め世界中で、このひたむきな水を思うままに操って、噴水はさまざまなかたちに演出される。ネットサーフィンしているなかで、贅を尽くしたドバイの踊る噴水(3分強/サウンド有)に息をのんだ。自在に踊る水にもっとも似ているものは、もっとも遠いはずの炎であった。火もまた、もたれることができないもののひとつである。〈水馬いのちみづみづしくあれよ〉〈生きてふるへるはなびらのことごとく〉『啓示』(2009)所収。(土肥あき子)


May 2652016

 噴水の奥見つめ奥だらけになる

                           田島健一

の季語の噴水といえば、水を噴き上げるその涼しげな姿を詠むのが定石。それがこの句は噴水の水盤の奥を見つめているのだろうか。変化をつけながら水しぶきを上げて舞う噴水の穂先の華やかさに比べ、落ちる水を受け止める黒っぽい敷石は水面の変化を受け止めながらも不変である。じっと見つめていると視界そのものが「奥だらけになる」見つめている側の感覚に引き込まれてゆくようで私には面白く感じられるが「噴水の奥ってどこ?」「奥だらけって何?」と戸惑う読み手も多いだろう。季語の概念にとらわれずに対象を自身の感覚で捉えなおすことは多数の俳人が詠み込んでゆくなかで季語に付与された本意本情と考えられているものをいったん脱ぎ捨てることでもある。共感を呼び込むには難しいところで勝負している句かもしれない。「オルガン」2号(2015)所載。(三宅やよい)




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