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May 0551997

 大鍋のカレー空っぽ子供の日

                           西岡一彦

食メニューの人気ランキングで、常にトップの座に君臨しつづけてきたカレーライス。子供たちは、本当にカレーが好きだ。私も好きだが、妙に凝った味のものよりも、そこらへんの店のありふれたものがよい。昔ながらの「そば屋のカレー」も独特な味がしてなかなかのものだが、時に飲み水のコップにスプーンを漬けて出してくる店があり、あれには閉口させられる。何の「まじない」なのだろうか。この句は、こどもの日のイベントが果てた後の感慨だろう。逞しい彼らの食欲に、人としての未来を感じ希望を感じている。それこそ妙に凝っていないところが、この句のよさである。(清水哲男)


May 0551998

 草笛や子らの背丈をさだかには

                           山田みづえ

笛は高音を得意とするので、遠くからの音もよく聞こえてくる。島崎藤村の詩を引き合いに出すまでもなく、哀調を帯びた音色だ。わけあって子供たちと別れた作者は、どこからかかすかに聞こえてくる草笛の音に、幼子たちとの日々を思い出している……。が、悲しいことに、子供らの背丈をもはや知ることは適わない宿命を嘆いている。母親としての胸のつまる想いが、遠くの草笛によって誘いだされている。同じ作者に「こどもの日は悲母の一日や家を出でず」があるので、よけいにこの草笛の音色は身にしみてくる。ところで、最近では草笛を吹く人も少なくなったが、この季節の公園などに行くと、たまに吹いている年寄りがいたりする。たいていの人が得意げに吹き鳴らしているので、私は嫌いだ。吹き方ひとつで、「どんなもんだい」という心根のいやしさがわかってしまう。「アホか」と、私は聞こえなくなる風上の遠いところまで歩いていく。『忘』(1966)所収。(清水哲男)


May 0552006

 東京のきれいなことば子供の日

                           西本一都

語は「子供の日」で夏。作者がどこの土地の人かは知らない。句から推して、東京からは大分遠い地方の在住なのだろう。自宅にか、近所の家にか、ゴールデンウイークなので、東京の子が遊びに来ている。その子の話す「東京のことば」に、なんと「きれい」なのだろうと聞き惚れている図だ。むろん、どんな地方の言葉でも、きちんと話せば「きれい」なのではあるが、掲句の「きれい」は、耳慣れない東京弁のチャキチャキした歯切れの良さを言っているのだと思う。ラジオなどから聞こえてくる「ことば」を、そのまま話すことへの物珍しさも手伝っての、新鮮な印象も含まれている。「きれいなことば」という平仮名表記が、その子の話し振りを彷佛とさせて心地良い。ところで表記といえば、国が定めている五月五日の祝日表記は「子供の日」ではなく、「こどもの日」である。これはそれこそ小さい「こども」にも読めるようにという配慮からでもあるのだろうが、それだけの理由からではなさそうだ。というのも、昔から「こども」ならぬ「子供」という漢字表記には差別的だという声が強いからである。とくに教育福祉関係などでは「子供」の「供」は「お供」の意なので,親の従属物を連想させるという理由から「子ども」と書くことが多い。しかし、「ども」だと「豚ども」「野郎ども」などの蔑視発想につながるから、それも駄目で、むしろ「子供」のほうがマシだと言う人もいて,てんやわんや。戦後すぐの「大民主主義」の時代に、それらの意見を考慮した結果、「こどもの日」に落ち着いたというのが、実際のところであったような気がする。『新日本大歳時記・夏』(2000・講談社)所載。(清水哲男)


May 0552007

 揺れつつ海へ伸びゆく道や子供の日

                           中村草田男

月五日が子供の日として祝日になったのは、戦後間もなくの昭和二十三年のこと。子供の人格を重んじ、幸福をはかるという趣旨で端午の節句があてられたという。最近は子供が甘やかされているから年中子供の日ではないか、などと言われもするが、社会全体で子供の幸せを願おうというのは健全な発想だろう。作者は、昭和八年から三十年間余り、東京の私立成蹊学園で教鞭をとっていた。病気や大学転部などで、三十二歳とやや遅めの就職である。その翌年の句に〈入学試験幼き頸の溝深く〉などあり、子供との関わりの中で生まれた句も多いことだろう。掲句、一読して、海へ伸びゆく道、はすんなりわかる。広々とした海へ続く道。そこに、上五を七音にしてまで、揺れつつ、である。揺れているのは何なのか。道は自由の海へ続いている。しかしそこを歩いて行く時、立ち止まったり、ためらったり、時には引き返そうかと思ったりしてしまう。やはり、そんな十代のいわゆる思春期の不安定な心持ちが、揺れているのだろう。そしてそれを包みこむ、作者の慈しみの視線がある。だからこそ、伸びゆく道や、という力強い表現に、健やかなれ、という願いが感じられ、本来の子供の日の一句となっている。『草田男季寄せ』(1985・萬緑「草田男季寄せ」刊行会)所載。(今井肖子)


May 0552009

 したたかに濡るる一樹やこどもの日

                           川村五子

日「こどもの日」。子供はいつ見ても濡れているように思う。お日さまの下、やわらかい髪を汗で貼りつけ、駆け回っているイメージがあるからだろうか。それはまるで、太陽を浴びることでスイッチが入り、汗をかくことで一ミリずつぐんぐんと成長しているかのように。掲句の一本の樹は健やかに発育する子供の象徴であり、そこにはそれぞれの未来へと向かうしなやかなまぶしい手足が見えてくる。強か(したたか)とは、人格を表すときには図太いとか狡猾など、長所として使われることはないが、一旦人間を離れ、自然界へ置き換えた途端に、その言葉はおおらかに解き放たれる。掲句の核心でもある「したたかに濡るる」にも、単に雨上がりの樹木を描くにとどまらず、天の恵みの雨に存分に浄められ、つやつやと滴りを光らせている枝葉が堂々と立ち現れる。初夏の鮮やかな木々が、世界を祝福していると感じられる甘美なひとときである。〈空容れてはち切れさうな金魚玉〉〈朝顔の全き円となりにけり〉『素顔』(2009)所収。(土肥あき子)


May 0552010

 大鍋のカレー空っぽ子供の日

                           西岡一彦

日は「子供の日」、大型ゴールデン・ウィークの最後の日でもある。みなさま身も財布もクタクタ……でしょうか? 例外なく子供はカレーライスが大好き。いや、大人だって例外ではない。好みによって、家庭によって、それぞれ工夫されたカレーライスが作られる。子供にも楽しみながら簡単に作ることができる。私が子供の頃の田舎では、肉は容易に入手できなかったけれど、肉のかわりに鮭缶や鯨肉入りのものをよく食べさせられ、おいしかった。さて、子供の日に何かの集まりで、お母さんたちが大鍋にどっさり作ったカレーが振る舞われたのだろう。子供たちが寄ってたかって、あっという間に大鍋が空っぽになってしまったーという情景をごく素直に詠んだ句である。妙にテクニックを凝らすよりも、このストレートさがむしろ好ましい。それでいて、中七「カレー空っぽ」というKR音の重ね方が、明るいリズム感を生んでいる。隠された計算だろう。かつて和歌山で毒入りカレー事件なる物騒な事件が起きたけれど、一人でしみじみスプーンを口に運ぶというよりは、子供であれ、大人であれ、大勢寄ってたかってワイワイとにぎやかに食べるほうが、カレーライスはおいしいに決まっている。レストランのコックさんが作ったものよりも、お母さんがさりげなく作ったカレーがいちばんおいしい。不思議な料理である。私たちが食べるカレーのスタイルはインドではなく、イギリスで作られたものだそうだ。清水哲男『「家族の俳句」歳時記』(2003)所載。(八木忠栄)


May 1652013

 たけのこに初めてあたる雨がある

                           中西ひろ美

けのこの伸びるのは早い。「竹の子がほめてほめてと伸びてゆく」という紀本直美の句があるけど、本当にとどまるところを知らない伸び方である。地面からちょいと頭が見えかけたものでも掘りさげるとかなり大きなサイズのたけのこになる。掘り起こしたら早めに料理しないと日が経てばたつほどエグミが出てくる。堀ったばかりのタケノコを刺身のように薄く切って食べるのが一番旨いというがまだ試したことはない。暗い地下からほっこり頭を出したタケノコに当たる雨は若葉雨だろうか。土の匂いとたけのこに降り注ぐ柔らかな雨を思うと読む側の心持もしっとりとしてくる。ぽこっと芽を出したたけのこをじっと見つめている作者のまなざしの優しさが伝わってくる句だ。「古い匂いも出てくるこどもの日」「京都までおいで一通の若葉」『haikainokuni@』(2013)所収。(三宅やよい)


May 0552015

 乗り継いでバスや都電や子供の日

                           小圷健水

日こどもの日。古来より男児の健全な成長を祝う端午の節句だったが、1948年に「こどもの人格を重んじ、幸福をはかるとともに、母に感謝する日」として国民の祝日となった。掲句は目的地に行く手段というより、乗り物好きの子供へのサービスのように思われる。赤ん坊や子供の乗りもの好きは、絵本や玩具に、あらゆる乗りものグッズが充実していることに表れている。わけても男児にその傾向が強く、プラレールに夢中になり、ミニカーを集め、なかにはすべての電車の名前をそらんじてしまう子もいるほどだ。それは鮮やかな色やかたち、規則的な動きなどに新鮮な刺激を受けていると考えられている。わが子がバスや都電にはずむように乗り込む姿に、父はふと遠い記憶を重ねる。乗りもの好きをさかのぼれば、それは抱っこや肩車から始まっていることに気づき、いっそう愛おしく思われるのだ。句集には〈大皿に向きを揃へて柏餅〉や〈ざつくりと二つに切つて菖蒲風呂〉も。子供の日の香り立つような時間がおだやかに描かれる。『六丁目』(2015)所収。(土肥あき子)




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