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April 1841997

 靴みがきうららかに眠りゐたりけり

                           室生犀星

ってみるとすぐに分かるが、「うららか」や「のどか」といった季語を使うのはとても難しい。季語自体が完璧な世界を持っているからだ。それで説明がすべてすんでしまっているからである。だから、たいていの場合は、屋上屋を重ねたようなあざとい句か月並みなそれに堕してしまう。その点、この句は自然とは無縁の都会に「うららか」を発見していて、まずは及第点か。おお、懐かしの「東京シューシャイン・ボーイ」よ、いま何処。彼らはみな、とっくに還暦は越えている。(清水哲男)


February 2221998

 うららかや涌き立つ鐘のするが台

                           入江亮太郎

駿河台(東京・神田)の鐘といえば、昔からニコライ堂のそれと決まっている。にぎやかな音でうるさいほどだが、涌(わ)き立つ感じは希望の春に似合っている。作者の母の生地でもあり、この鐘の音には特別な思い入れがあっての一句だろう。「ニコライの鐘や春めく甲賀丁」とも詠んでいる。戦後の流行歌に「青い空さへ小さな谷間……」という歌い出しの「ニコライの鐘」というヒット曲があって、この鐘が全国的に有名だった時代もあった。「うるさいほど」と書いたが、これは私の実感で、受験浪人時代に鐘のすぐそばの駿台予備校(現在とは違う場所にあった)に通っていたことがあり、鳴りはじめると講師の声が聞こえなかった思い出がある。したがって、間違ってもこの句のような心境ではなかったのだが、今となってはやはり懐しい音になった。ひところ騒音扱いされて鳴らさなくなったと新聞で読んだ記憶があるが、今はどうなのだろうか。駿河台界隈には、めったに行かなくなってしまった。『入江亮太郎・小裕句集』(1997)所収。(清水哲男)


April 2742000

 うららかや袱紗畳まず膝にある

                           久米三汀

の置けない茶会の席である。茶碗を受けたあとの袱紗(ふくさ)が、畳まれずにずっと膝にあるという図。いかにうちとけた茶会とはいえ、普段ならきちんと畳むところだ。つい畳まずにあるのは、この麗かさのせいなのだと……。三汀(久米正雄)は十代より俳人として名を知られたが、途中から小説に転じて成功をおさめた。と言っても、今日彼の小説を読む人がいるかどうか。同じ鎌倉に住んだ永井龍男に簡潔な人物スケッチがあるので、引いておく。「明治大正を通じて、狭い世界に閉じ籠っていたわが国の文学・文学者は、大正期の末頃からにわかに社会性を帯びたが、久米正雄は当時の文壇を代表して一般社会に送り出された選手であった。派手な才能人であっただけに、文学者として社会人として常に毀誉褒貶の中にいた。人前では微笑を絶やさず明朗な人であったが、傷つくことも多く、苦渋に顔をゆがめて独居するさまを、その自宅で私はしばしば見た。俳句は、そのような鬱を散じるためにあった。三汀の句は紅を紅、青を青と云い極める華麗さに特徴があった。句座での三汀は純粋であった」(『文壇句会今昔』1972)。また、相当な新しがり屋でもあり、放送をはじめたばかりのラジオを聞くために、自宅に巨大なアンテナをおっ立てた話を随想で読んだことがある。今ならば、間違いなくパソコンにのめりこんでいただろう。「文藝春秋」(1937年4月号)所載。(清水哲男)


April 0342001

 春うらら上がる下がると京の街

                           浅見優子

学時代の下宿の位置を京都駅から説明すると、駅前の烏丸通をまっすぐ「上がって」いくと烏丸車庫に突き当たり、そこから立命館高校ガ見えるので、裏手の小山初音町に回り込み、三味線の音が聞こえてきたら(大家さんは長唄のお師匠さん)、その家の二階が私の部屋であった。京都に住んでしまえば「上がる下がる」は「東入る西入る」とともに便利な方向指示用語だけれど、最初は戸惑った。京都のように整然と東西南北に走る道筋を知らなかったので、かえってまごつくことになった。要するに、道はまがりくねっているものという先入観が、なかなか払拭できなかったからだ。作者も、同様だろう。旅の人ゆえ、戸惑いすらもが面白く、春の「麗か」(季語)さが増幅される気分になっている。なぜ「上がる下がる」なのかと言えば、「天子は南面す」る存在であるから、天子は常に北を背にしている。したがって、北におわします天子に近づくのが「上がる」で、遠ざかるのが「下がる」という理屈だ。だから、江戸時代の江戸で出た地図も「上方(かみがた)」である西を上にして描かれている。西洋流の北を上にする描き方を知らなかったわけではないはずだが、おそれおおいということで西側を上に持ってきたのだろう。ただし「御城(江戸城)」という図上の表記は真っ逆さまだ。とても変な感じだけれど、これは暗に天子に足を向けた「御城」の権威を表している。天子を形式的にうやまいつつも、実質的な権力の象徴としての「御城」の権威をも、同一画面に同時に描こうとした地図師の苦肉の策だったかと思われる。「春うらら」とは遠い話になってしまった。「朝日俳壇」(「朝日新聞」2001年4月2日付)所載。(清水哲男)


March 0532008

 春うらら葛西の橋の親子づれ

                           北條 誠

んなのどかな春の風景はもうなくなった、とは思いたくない。都会を離れれば、こういううららかな親子づれの光景はまだ見られるだろう。いかにものどかで、思わずあくびでも出そうな味わいの景色である。時折、こんな句に出くわすと、足を止めてしばし呼吸を整えたくなる。葛西は荒川を越えた東に位置する江戸川区の土地である。「葛西の橋」を「葛西橋」と特定してもいいように思う。もちろん葛西には旧江戸川にかかる橋もあることはある。江東区南砂と江戸川区葛西を一直線で結ぶ道路の、荒川にかかっているのが葛西橋である。葛西橋は他にも俳句に詠まれていて、のどかな時間がゆったり流れていることもあれば、せつなくも侘しい時間が流れていることもある。「葛西」という川向こうの土地がかもし出すイメージが、「親子づれ」をごく自然に導き出してくれている。小津安二郎(?)か誰かの映画のワンカットで、「葛西橋」とはっきり書かれた木の橋の欄干が映し出された画面が私の記憶に残っている。映画の題名も監督も、今や正確には思い出せない。この「親子」はどんな氏素性をもった親子なのか、何やらドラマの一場面のようにも想像されてくる。北條誠は脚本家として映画「この世の花」をはじめ、多くの小説や脚本を残した。「まつ人もなくて手酌のおぼろかな」「永代の橋の長さや夏祭」等々、気張らず穏かな俳句が多い。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


February 1722009

 恋猫といふ曲線の自由自在

                           杉山久子

が家の三毛猫は、松の内が明ける頃早々に恋猫となる。近所に野良猫もたくさん住む環境ながら、タイミングがずれているせいか、雄猫がうろつくこともなく、孤独のうちに恋猫期が終わる。そして、二月に入ると近所の猫たちの恋のシーズンが始まるが、この時期にはもう我関せず。ペットだからいいようなものの、女性としてはどうなのよ、と質問したいものである。恋猫の姿というのは、掲句の通り、立っても歩いても寝転んでもどこかしら魅惑の曲線を伴う。とはいえ、猫嫌いの方にとっては、あのくねくねした感じがなによりイヤと言われるのかもしれない。猫好きが多い私の周りで、はっきり猫が嫌いという方の理由を聞くと「抱いたときのあのぐにゃっとした感じ」なんだそうだ。「お菓子が嫌いなのはあの甘いところ」に通じるような、とりつく島のなさに思わず笑ってしまったが、猫が苦手という何人かに聞くと、総じて「分かる分かる」と頷かれる。猫諸君。抱かれるときは少し身を固くしてみてはいかがだろうか。〈雛の間に入りゆく猫の尾のながき〉〈猫の墓猫に乗られてうららけし〉『猫の句も借りたい』(2008)所収。(土肥あき子)


November 18112009

 炬燵して語れ真田が冬の陣

                           尾崎士郎

の時季、北国ではもう炬燵が家族団欒の中心になっている。ストーブが普及しているとはいえ、炬燵にじっくり落着いてテコでも動かないという御仁もいらっしゃるはずである。広い部屋には炬燵とストーブが同居しているなどというケースも少なくない。日本人の文化そのものを表象していると言える。「真田が冬の陣」とは、言うまでもなく真田幸村が大坂城で徳川方を悩ませた「冬の陣」のことをさす。その奮戦ぶりを「語れ」という、いかにも歴史小説家らしい着想である。幸村はその後、「夏の陣」で戦死する。私は小学生の頃、炬燵にもぐり込んで親戚の婆ちゃんから怖い話も含めて、昔話を山ほど聞いた思い出がある。しかし、その九割方はすっかり忘れてしまった。炬燵の熱さだけが鮮明に残っているのは我ながら情けない。大学一年の頃は、アパートのがらんとした三畳間で電気炬燵に足をつっこんで、尾崎士郎の「人生劇場」(これまで十数回映画化されている)をトランジスターラジオにかじりついて毎夜聴いていた。古臭い主題歌に若い胸を波立たせていたっけなあ。物語をじっくり話したり聴いたりするのには炬燵こそ適している、と思うのは私が雪国育ちのせいかもしれない。士郎は俳句を本格的に学んだわけではなかった。他に「うららかや鶏今日も姦通す」がある。蕪村には「腰ぬけの妻うつくしき炬燵かな」。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


February 2422014

 麗らかに捨てたるものを惜しみけり

                           矢島渚男

乏性と言うのだろう。なかなか物を捨てることができない。押し入れを開けると、たとえばオーディオ機器のコードの類いがぎっしりと詰まったビニール袋があったりする。さすがに壊れてしまった本体は処分してあるのだが、コードなどはまたいつか使うこともあろうかと、大事にとってあるのだ。が、ときどき袋のなかから適当に拾い出して見てみると、もはやどういう機器に使うためのコードなのかがさっぱり分からなくなっている。それでもやはり、断線しているわけではないはずだからと、とにかくまた袋に戻しておくことになってしまう。そんな私でも、この句が分かるような気がするのは不思議だ。いや、そんな私だからこそ分かるのかもしれない。作者が何を捨てたのかは知らないが、それを惜しむにあたって、「麗らかに」という気分になっている。これは一種の論理矛盾であって、惜しむのだったら捨てなければよいところだ。でも、思い切って捨てたのだ。そうしたら、なにか心地よい麗らかな気分がわいてきた。あたかも時は春である。この気分は、人間の所有欲などをはるかに越えて、作者の存在を大きく包み込んでいる。つまり、この句は人間の我欲を離れたところに存在できた素晴らしさを詠んでいる。捨てたことに一抹の寂しさを残しながらも、自分をとりまく自然界に溶けてゆくような一体感を得た愉しさ。これに勝るものは無しという境地……。『船のやうに』所収。(清水哲男)




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