季語が木の芽の句

April 1541997

 がうがうと欅芽ぶけり風の中

                           石田波郷

(けやき)の大木が、あちらこちらで芽吹き始めている。大木になるために、小さな家の庭は勿論、小さな公園でも、又街路樹としても余り歓迎されない。「困」るという字には、元々、屋敷「□」の「木」が大きくなって「困」るという意味があるようである。狭い土地を更に分割して庇を寄せあって暮らしている人間を尻目に超然と、欅は、今年も、風を相手に蘇ってきている。(板津森秋)


February 1721998

 ひた急ぐ犬に会ひけり木の芽道

                           中村草田男

吹きはじめた木々の道に早い春を楽しみながら歩いていると、向こうから犬がやってきた。なにやら真剣な顔つきで、作者には目もくれずに急ぎ足のまますれちがって行ってしまった。それだけのことだが、余程の事情がありそうな犬だと思わせているところがユニークで面白い。そういえば、昔は犬が単独で歩いていた。大きな犬がやってくると、たじろいだりしたものだ。目を合わせないようにして、平気な振りをしてすれちがうのがコツで、決して元来た道を走って逃げたりしてはいけない。そう、親たちから教えられていた。いまの犬はみな飼い主と一緒だから、怖そうな犬でも飼い主の制御力を信頼して平気ですれちがえる。犬なりの事情や感情を読み取らなくてもよくなってしまった。安心になった。それにきっと犬の側にも、いまでは「ひた急ぐ」事情など発生しなくなってしまっているのだろう。完全に飼育されきってしまわないと、犬も生きられない時代になったということだろう。やれやれ……。『中村草田男句集』(1952)所収。(清水哲男)


February 2121998

 美しく木の芽の如くつつましく

                           京極杞陽

人の理想像を求めた句だろう。実像の写生だとすれば、かくのごとき女性と親しかった作者は羨ましいかぎりであるが……。「木の芽の如く」という比喩が印象的だ。木の芽そのものも初々しいが、この比喩を使った杞陽も実に初々しい。清潔な句だ。実はこの句は、戦前(1936年)のベルリンで詠まれている。というのも、当時若き日の杞陽はヨーロッパに遊学中で、日本への帰途ベルリンに立ち寄ったところ、たまたまベルリンに講演に来ていた高浜虚子歓迎の句会に出席することになり、そこで提出したのがこの句であった。虚子は大いにこの句が気に入り、後に「ホトトギス」(1937年12月号)に「伯林俳句会はたとひ一回きりで中絶してしまつたにしましても、此の一人の杞陽君を得たといふことだけでも意味の有ることであつたと思ひます」と書いているほどだ。以後、作者は虚子に傾倒していく。外国での虚子との偶然に近い出会いから、京極杞陽は本格的な俳人になったのである。その意味では、出世作というよりも運命的な句と言うほうが適切だろう。『くくたち上巻』(1946)所収。(清水哲男)


March 0731998

 日のたゆたひ湯の如き家や木々芽ぐむ

                           富田木歩

正十二(1923)年、木歩二十六歳の句。前書に「新居」とある。場所は東京府本所区向島須崎町十六番地。隅田川に面した町だ。「湯のごとき家」とは珍しい表現だが、暖房もままならなかった時代に、春を迎えた喜びがストレートに伝わってくる。ましてや、新居である。作者は、とてもはりきっている。生涯歩くことのなかった木歩には、このようにのびやかで明るい句も多い。若くして数々の苦難にあい、それに濾過された晴朗な心の産物なのであろう。しかし、この句を詠んだ半年後に関東大震災が起き、木歩は隅田川の辺で非業の死を遂げることになる。人の運命はわからない。この句は『すみだ川の俳人・木歩大全集』(1989)という本に収められている。実は、本書はこの世にたった二冊しかないという希覯本だ。畏友・松本哉があたうかぎりの資料を調べワープロを打ち、布装の立派な本にして恵投してくれたものである。彼とはじめて木歩について語り合ってから、三十年の月日が流れた。(清水哲男)


October 24101999

 日本シリーズ釣瓶落しにつき変はり

                           ねじめ正也

の親にして、この子あり。この子とは、熱烈な長嶋ジャイアンツ贔屓のねじめ正一君。お父上も、相当な野球狂だったらしい。「渾身の投球を子に木々芽吹く」。こうやって、子供を野球選手に仕立て上げたかったようで、実際、正一君を高校に野球入学させたところまではうまくいった。日大二高だったか、三高だったか。句であるが、息つくひまもないほどに「つき」が変わる熱戦を詠んでいる。が、「釣瓶(つるべ)落し」の比喩はいささか気になる。日本シリーズは秋に行われるので、「秋の落日は釣瓶落し」からの引用はわかるけれど、これだと時間経過の垂直性のみが強調される恨みが残る。野球というゲームの空間的な水平性が、置き去りにされてしまっている。たしかに「つき」の交代は時間の流れのなかで明らかになるわけだが、「つき」の変化が認められる根拠には水平性がなければならない。もっと言えば、時間が経過するから「つき」が変わるのではなく、空間が歪んだりするので「つき」も変わるのだ。でも、こんな理屈はともかくとして、句の「どきどき感覚」は捨てがたい。ちなみに、作句年は1990年(平成二年)。日本シリーズで、藤田ジャイアンツが森ライオンズにストレート負けした年である。『蠅取りリボン』(1991)所収。(清水哲男)


March 0232000

 ミユンヘンの木の芽の頃の雨の写真

                           京極杞陽

なる観光写真というのでもない。京極杞陽は、昭和十年(1935)から一年間、ヨーロッパに遊学している。日本への帰途、たまたま立ち寄ったベルリンで高浜虚子の講演を聞き、翌日開かれた日本人会による虚子歓迎句会にも出席。それが虚子との運命的な出会いとなった。作者はいま、その当時の写真に見入っている。早春のミュンヘンは、まだ日本よりも相当に寒い。しかも、雨が降っている。なつかしく眺めながら、撮影当時には気にもしていなかった雨に濡れた木の芽に視線がいき、そこから街全体のたたずまいや音や香りを思い出している。写された人物や背景の建物よりも、いまとなれば、ついでに写りこんでいる木の芽が、いちばん雄弁にミュンヘンを物語っているということだろう。こういうことは、よくある。記録は、閲覧するときの環境に応じて、いろいろに姿を変える。意味あいを変える。だから、あらゆる記録にはクズなどない。写りがよくないからと、ポイポイ写真を捨ててしまう女性がいるけれど、もったいないかぎりである。『くくたち・下巻』(1977)。(清水哲男)


February 1522001

 宿の灯や切々闇に芽吹くもの

                           清水哲男

うか「切々」は「きれぎれ」と読まずに「せつせつ」と読んでください。さて、年に一度の誕生日、したがって「増俳」も年に一度の無礼項なり(笑)。自註をくっつけるほど偉そうに振る舞える句でもないけれど、ちょっとコメント。なぜ、日本旅館にしても洋風のホテルにしても、部屋の燈火はあんなに薄暗いのだろうか。宿には夕暮れ以降に入ることが多いので、特にその印象が強い。玄関辺りの明るさにやれ嬉しやと思ったのも束の間、通された部屋の灯が薄らぼんやりしているのにはがっかりする。まともに新聞も読めやしない。仕方がないので点けられる電気はみんな点けて、ついでに見たくもないテレビまで点けてみるが、まだ暗い。こういう不満がわいてくるのは、むろん一人旅のときである。暗いから、いよいよ一人旅の侘びしさはつのってしまう。人間とは妙なもので、こういうときには、なんとなく窓を開けてみたりする。表にはボオッと水銀灯(もどき)が灯っていたりするけれど、ほとんど何も見えないことくらい、あらかじめ承知している。だけど、開けてみたくなる。開けてみて、あちこち見回したりする。なんにも見えっこないのにね。で、ここからが句のテーマ。外の様子は見えないが、四季それぞれの季節感は流れ込んでくる。春夏秋冬、窓を開ければその土地ならではの自然の「気」が風に乗ってくる。揚句では、そんな早春の「気」をつかまえたつもり。やがてはむせ返るような若葉の季節への予兆が、ここにある。そう思うと、やはり「芽吹き」は「切々」でなければなるまい。窓を閉めて薄暗い燈火の下に戻ると、ますますその感は深くなる。生命賛歌であると同時に、晩年に近いであろう自分の感傷的な切なさとを、それこそ「切々」と重ね合わせてみた次第。しょせん人生なんて「一人旅さ」の、つもりでもある。最近は、年間二百句ほど作っている。「自薦句」にしてはいやに古風なのだけれど、最新句なので、あえてお目汚しは承知の上で……。(清水哲男)


March 3132006

 デッサンのはじめの斜線木の芽張る

                           うまきいつこ

語は「木の芽」で春。絵心のある人でないと、なかなかこうは詠めないだろう。スケッチブックに柔らかい鉛筆で、すっと「はじめの斜線」を引く。木の枝だ。すると、それだけで写生の対象となった眼前の木の芽が、きりりと己を張ったように見えてきたというのである。物をよく見るというのはこういうことであって、それと意識して斜線を引いたおかげで、対象物が細部にいたるまで生き生きと見えてきたのである。いささか教訓めくが、俳句など他の表現においても事は同じで、対象物をよく見て書き、書くことでいっそう対象が鮮やかな姿をあらわす。写生が大事。そうよく言われるのは、この意味からである。ところで、専門家であるなしを問わず、絵をどこから描きはじめるかは興味深い問題だ。掲句は斜線からはじめているわけだが、同じ情景を描くにしても、手のつけどころは人様々のようである。中心となる物からはじめたり、逆に周辺から固めていったりと、描き手によってそれぞれに違う。典型的なのは幼児の場合で、人物を描くときに足のほうからはじめていって、頭をちゃんと描くスペースがなくなり、ちょんぎれてしまうケースは多い。でも、そんな絵に彼らが違和感を覚えないようなのは、やはり彼らの目の位置が低いせいだろう。日常的にも、幼児は大人の頭をさして意識していないのではなかろうか。大人は絵の構図を企むので、簡単には分析できそうもないけれど、私のように下手でも描いてみると、「はじめ」が意外に難しいことがわかる。『帆を張れり』(2006)所収。(清水哲男)


November 18112006

 大仏の屋根を残して時雨けり

                           諸九尼

句を始めて新たに知ったことは多い。十三夜がいわゆる十五夜の二日前でなく、一月遅れの月であることなどが典型だが、さまざまな忌日、行事の他にも、囀(さえずり)と小鳥の違いなど挙げればきりがない。「時雨」もそのうちのひとつ、冷たくしとしと降る冬の雨だと漠然と思っていた。実際は、初冬にさっと降っては上がる雨のことをいい、春や晩秋の通り雨は「春時雨」「秋時雨」といって区別している。「すぐる」から「しぐれ」となったという説もあり、京都のような盆地の時雨が、いわゆる時雨らしい時雨なのだと聞く。本田あふひに〈しぐるゝや灯待たるゝ能舞臺〉という句があるが、「灯(あかり)待たるゝ」に、少し冷えながらもさほど降りこめられることはないとわかっている夕時雨の趣が感じられる。掲句の時雨はさらに明るい。東大寺の大仏殿と思われるのでやはり盆地、時雨の空を仰ぐと雲が真上だけ少し黒い雨雲、でも大仏殿の屋根はうすうすと光って、濡れているようには思えないなあ、と見るうち時雨は通り過ぎてしまう。さらりと詠まれていて、句だけ見ると、昨日の句会でまわってきた一句です、と言っても通りそうだが、作者の諸九尼(しょきゅうに)は一七一四年、福岡の庄屋の五女として生まれている。近隣に嫁ぐが、一七四三年、浮風という俳諧師を追って欠落、以来、京や難波で共に宗匠として俳諧に専念し、浮風の死後すぐ尼になったという、その時諸九、四十九歳。〈夕がほや一日の息ふつとつく〉〈一雫こぼして延びる木の芽かな〉〈けふの月目のおとろへを忘れけり〉〈鶏頭や老ても紅はうすからず〉繊細さと太さをあわせもつ句は今も腐らない。『諸九尼句集』(1786)所収。(今井肖子)


February 0722007

 残寒やこの俺がこの俺が癌

                           江國 滋

の俳句には余計なコメントは差し控えるべきなのかもしれない。鑑賞やコメントなどというさかしらな振る舞いなどきっぱり拒絶して、寒の崖っぷちに突っ立っている句である。・・・・句集『癌め』には、癌を告知された平成9年2月6日から、辞世となった8月8日(死の2日前)の作「おい癌め酌みかはさうぜ秋の酒」までが収められている。掲出句は、告知された2月6日から同月9日までに作られたうちの一句。「残寒や/この俺が/この俺が癌」とも「残寒や/この俺がこの俺が/癌」とも読める。前者は中七「この俺が」の次に「癌」は咄嗟には詠み淀んで溜め、最後にようやく打ち出された。後者の「この俺がこの俺が」という大きな字余りには、重大な告知をされた者ならではの万感がこめられているし、下五を字足らず「ガン」で止めた衝撃も、したたかで強烈。「残寒や・・・・」の句のすぐ前には「木の芽風癌他人事(ひとごと)と思ひしに」という句が置かれている。癌をはじめ難病に罹った者は、誰しも「他人事」と思っていただろうし、「選りによって、なぜ、この俺が・・・」という怒りに似た思いを禁じえない。さらに「残」と「寒」という字は苛烈な意味合いを孕むだけでなく、「ザン」「カン」という言葉は、切り立つような尖った響きを放って作者にも読者にも迫る。江國滋が俳句や落語、日本語などについて書いたものは毒がきいていて痛快だった。鷹羽狩行は「江國さんは、正義の味方であり、弱者の味方でした。正義の味方がエッセイとなり、弱者の味方が俳句となったのではないか」と指摘している。滋酔郎の俳号で東京やなぎ句会のメンバーでもあった。句集『癌め』(1997)所収。(八木忠栄)


October 10102007

 障子洗ふ上を人声通りけり

                           松本清張

時記には今も「障子洗ふ」や「障子の貼替」は残っているけれど、そんな光景はごく限られた光景になってしまった。私などが少年の頃は、古い障子を貼り替えて寒い季節をむかえる準備を毎年手伝わされた。古くなった障子を指で思い切りバンバン突いて破って、おもしろ半分にバリバリ引きはがした。本来、破いたりはがしたりしてはならない障子を、公然と破く快感。そして川の水でていねいに桟を洗って乾かし、ふのりを刷毛で多すぎず少なすぎず桟に塗り、巻いた障子紙をころがしながら貼ってゆく作業を母親から教わった。なかなかうまく運ばない。でも変色した障子にかわって、真ッ白い障子紙が広がってゆく、その転換は新鮮な驚きを伴うものだった。掲句は道路から数段降りた川べりの洗い場での作業であろう。「上を」という距離感がいい。正確には「障子戸」を洗っているわけだ。一所懸命に作業をしている人に、上の道路を通り過ぎて行く人が声をかけているという図である。「ご精が出ますねえ」とか「もうすぐ寒くなりますなあ」とでも声をかけているのだろう。その作業を通じて、作業をする人も声をかける人も、ともにこれからやってくる寒い季節に対する心の準備を、改めて確認している。同時にある緊張感も伝わってくる。あわただしいなかにも、のんびりとしてかよい合う心が感じられる。松本清張が残した俳句は少ないそうだが、ほかに「子に教へ自らも噛む木の芽かな」という句もある。いずれも、推理小説とはちがった素朴な味わいがある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


April 0742009

 山桜咲く山の木に囲まれて

                           名村早智子

のところ入学式にはすっかり葉桜になってしまうほど桜の時期が早まってしまったが、今年は開花宣言から雪が降るような思わぬ寒さが続いたせいか、いまだ満開とずいぶんと見応えがある。あらゆる樹木のなかで、もっとも人間に近いような気がする桜だが、山中にひっそりと佇む山桜となると人の気配もぐっと薄れ、白々とつつましく、そしてもちろん野趣も持ち合わせる。ソメイヨシノに代表される里桜は、花だけが吹き出すように咲き満ち、その豊満な美しさは絶景でもあるが、圧迫感に胸が塞がれる思いもするものだ。一方、山桜は花のかたわらにつやつやとした紅色の幼葉を伴うことで、全体の輪郭をやわらげ、花の咲く木としての自然な構えがことさら好ましく思える。木漏れ日のなか、山の雑木に紛れ咲く桜には、家族に囲まれた器量よしの娘のような、素顔の輝きがこぼれている。〈芽吹きつつ木は木の容思ひ出す〉〈叱られて金魚の水を替へてをり〉『山祇』(2009)所収。(土肥あき子)


April 0942009

 仔馬跳ね宇宙に満つる微光かな

                           石母田星人

の映画か忘れたが雷鳴の夜に誕生した仔馬が生れて間もなく立ち上がろうとするシーンがあった。そんな健気な仔馬も母馬について初めて戸外に出たときにはなかなか親馬のそばを離れないが、いったん走るコツを覚えると喜々として駆け始める。初めて受ける風も光る青葉も仔馬にはあふれんばかりにまばゆい世界に思えよう。まだ走る動作に慣れない仔馬がぎくしゃく脚を蹴りあげるたび命の躍動が微光となって暗黒の宇宙に満ちてゆく。今ここにある生命の全てはどこかで宇宙の営みと繋がっているのかもしれない。星人と名乗る作者にとって「地球に乗る」ことは季感のみなもとを見つめることであり、それは太陽系、銀河系を感じることである。とあとがきにある。その通り句集には自分の存在と宇宙の関係を大きな流れで捉える句が多く収録されており、小さくまとまりがちな季の捉え方に新しい方向性を指し示しているように思える。「掌に包みたる宙木の芽晴」「脊髄をはしる曙光や山桜」『膝蓋腱反射』(2009)所収。(三宅やよい)


August 0382010

 対岸は王家の谷や牛冷やす

                           市川栄司

ジプト5句と前書のあるなかの一句。一般に「牛馬冷す」の解釈は「田畑で使役した牛馬を川に引き入れ、全身の汗や汚れを落してやること」であるが、日本大歳時記の飯田龍太による解説はこれに加えた部分がとても素敵なので少し引きたい。「浅い川瀬に引き入れられると、牛も馬もここちよげに目を細める。その全身を飼主がくまなくたんねんに洗ってやる。文字通り、人馬のこころが通うひととき。次第にたそがれていく川明りのなかで、水音だけが鮮やかにひびく。だが近頃は農山村でも、そんな情景はとんと見かけなくなってしまった」。このとんと見かけなくなってしまった光景を、作者はエジプトで見ている。かの国においても牛は重要な動物であり、約3,400年前の壁画にも家畜としての牛が描かれていた。王家の谷とは、エジプトルクソールにあるツタンカーメンを含め60を越える王族たちの墓が連なる場所である。そして、掲句の通り対岸に王家の谷を見はるかすためには、牛はナイル川で冷やされているわけで、日本のひとまたぎできるような小川をイメージした農耕風景とは異なり、途方もなくスケールの大きな「冷し場」である。景色も歴史もまったく違っていながら、一頭の牛を愛おしむ姿は国を越えて、「牛冷す」の本意に叶っているものなのだと深く共感するのである。〈天使みな翼を持てり薔薇芽ぐむ〉〈うすばかげろふむかし女は眉剃りし〉『春落葉』(2010)所収。(土肥あき子)


April 1842013

 寝ぶそくの日や輝きて木の芽と鳩

                           八田木枯

田木枯少年句集には作者が10代の頃からの作品が収録されている。昭和初期若い俳人は俳句の世界で早熟な才能を現していた。昭和30年代の俳句の頂点ともいえる時代を支えたのは10代の頃より俳句を作り始めた俳人たちだった。石田波郷、三橋敏雄、伊丹三樹彦、みな10代で代表作といえる俳句を生み出している。俳句が若者と老人の文学と言われる由縁がそこにあるのかもしれない。さて掲句であるが、年を重ねると夜更かしするにも体力がなくなり翌朝はひたすら身体がだるいだけだが、緑のつやつやした葉っぱを噴きだす木の芽と鳩ばかりでなく寝ぶそくの若い肉体も季節のただ中で息づいている。私などは若い頃はひたすら自分の若さが疎ましかったが、この句集に収録されている句の数々は、若い時期にしかできない表現を俳句で定着させようとする意欲が感じられる。昨年逝去した俳人をしのぶ貴重な句集だと思う。『八田木枯少年期句集』(2012)所収。(三宅やよい)


June 1162013

 洗はれて馬の鼻梁の星涼し

                           鈴木貞雄

は栗毛や葦毛などの毛色とともに、顔や脚にある白斑が大きな特徴になる。額にある白斑を「星」と呼び、額から鼻先へ流れるそれを「流星」と呼ぶのは、いかにも颯爽とした馬に似つかわしい美しい名称である。乗馬を終えた馬は思いのほか汗をかいており、夏はクールダウンのため水をかけることもある。鞍を外し、水を浴び、全身を拭いてもらった馬は誰が見ても「あー、気持ちよかった」という表情をする。長い年月人間と関わってきた動物には、言葉はなくとも意思をやりとりできる術を心得ているのだろう。あるじの手入れの労に応えるように、洗い立てのつやつやした四肢を輝かせ、頭をぶるんとひと振りすれば、額の星がひときわ白く映える。それはまるで夏空にきらめく涼やかな星のように。〈てのひらに叩き木の芽を覚ましけり〉〈二番子にやや窶れたる燕の巣〉『墨水』(2013)所収。(土肥あき子)


April 2242014

 足跡の中を歩いてあたたかし

                           高橋雅世

跡が見えるということはアスファルトなど都会の道路ではないようだ。土に刻まれた足跡には、雑踏に感じる圧迫感と異なり、かすかな気配だけが残される。この道を自分よりほかに同じように歩いた人がいる。あるいは人ではなく、動物のものかもしれない。見ず知らず同士の生活の軌跡が一瞬ふと触れ合う。あたたかな日差しに包まれ、現在と過去が交錯する瞬間、記された足跡のひとつひとつから体温のぬくもりが発しているように思われる。掲句では足跡(あしあと)と読ませると思うが、足跡(そくせき)とも読むことを思うと、意味は一層深くなる。〈林から飛び出してゐる木の芽かな〉〈横顔のうぐひす餅をつまみたる〉『月光の街』(2014)所収。(土肥あき子)




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