季語が菫の句

April 0541997

 菫程な小さき人に生れたし

                           夏目漱石

見る乙女や心優しきご婦人が詠んだ句ではなく、髭をはやした漱石の句である。小さき者の愛らしさ、美しさは、人の心ををなごませてくれるが、漱石は、日本に「ガリバ旅行記」を本格的に紹介した人でもある。つまり、童話ではなく、堕落した人間の本質を抉る風刺小説であることを説いた。著者のスイフトも、「人類という動物」を激しく嫌いながらも、そのメンバーである一人一人の人間は大好きだといっている。人間を辱めたつもりの小説が、著者の意図に反して童話として読まれてしまう理由が、このあたりにある。(板津森秋)


April 2141997

 むつまじき吾が老父母にパンジーなど

                           赤城さかえ

良きことは美しき哉。素直すぎるくらいの句だ。が、妙にひねくりまわすよりも、このほうがよほどいい。作者とともに、読者もホッとできる。ところで、このパンジー(三色菫・遊蝶花)。どんな歳時記を開いても春の部に収録されているが、実際には秋でも冬でも元気に咲いている。近年、新しい品種が開発されたからだ。老舗の「タキイ種苗」(下り新幹線で京都駅近くにさしかかると、北側に本社社屋が見える)が二十年という歳月をかけて品種改良したものだという。冬の北欧などでパンジーを見かけたら、日本産と思って間違いはないそうだ。すなわち、今後創作されるパンジーの句は、必然的に「無季」ということになってしまう。「タキイ」も余計なことをしてくれた。と言ってよいのか、悪いのか……。(清水哲男)


February 0921998

 うすぐもり都のすみれ咲きにけり

                           室生犀星

見事ッ。そんな声をかけたくなるほどに美しい句だ。前書に「澄江堂に」とあるから、芥川龍之介に宛てたものである。田端付近の庭園か土手で、咲きはじめの菫をみつけたのだろう。いつもの年よりよほど早咲きなので、早速龍之介に一筆書いて知らせたというわけだ。意外に早い菫の開花に、作者はもちろん興奮を覚えているのだが、そこはそれ抒情詩の達人犀星だけあって、巧みにおのれの興奮ぶりを隠している。彼の俳句は余技ではあるけれど、興奮をそのまま伝えるのが野暮なことは百も承知している。実景ではあろうが「うすぐもり」と出たのは、そのためである。これで作者は粋になった。つづいて「都のすみれ」で、花自体をも粋に演出している。ちっぽけな花をクローズアップしてみせるという粋。さりげないようでいて、この句ではそうした作者の工夫が絶妙な隠し味になっている。受け取った芥川は、すぐに隠し味がわかっただろう。にやり、としたかもしれない。独自の抒情を張って生きるのは、なかなか大変なのである。(清水哲男)


March 0431999

 山路来て何やらゆかしすみれ草

                           松尾芭蕉

書に「大津に出る道、山路をこえて」とある。教科書にも載っており、芭蕉句のなかでも有名な句に入るだろうが、さて、この句のどこがそんなに良いのか。味わい深いということになるのか。まことに失礼ながら、この句の眼目をきちんと生徒に説明できる国語の先生は、そんなにはおられないと思う。無理もない。なぜなら、芭蕉の時代の「すみれ草」に対する庶民的な感覚ないしは評価を、ご存じないだろうからである。当時の菫は、単なる野草の一種にすぎなかった。いまの「ペンペン草」みたいなものだった。贔屓目にみても「たんぽぽ」程度。たとえばそれが証拠に、江戸期の俳句に「小便の連まつ岨(そば)の菫かな」(松白)があったりして、小便の先にも当然菫は咲いていただろう。菫が珍重されはじめたのは明治期になってからのことで、それまではただの草だったということ。詩歌の「星菫派」といい、宝塚の「菫の花咲くころ」という歌といい、菫が特別視されだしたのは、つい最近のことなのだ。だから、この句は新鮮だったのである。つまらない「野の花」に、なにやら「ゆかしさ」を覚えた人がいるという驚き。句からは、これだけを読み取ればよいのだが……。(清水哲男)


March 0532001

 カメラ構えて彼は菫を踏んでいる

                           池田澄子

あっ、踏んづけてるっ。写真を撮る人は、当然被写体を第一にするから、自分の足下のことなどは二の次となる。だから、菫(すみれ)でもなんでも委細かまわずに踏んでしまう。撮られる人もよく撮ってほしいから、たいていはカメラを意識して、撮影者の足下までは見ないものだ。ところがなかには作者のような人もいて、カメラから意識を外すことがある。そうすると、揚句のような情景を見てしまうことにもなる。この場合、とにかくカメラマンは夢中なのであり、被写体はあくまでもクールなのである。そんな皮肉っぽい面白さのある愉快な句だ。句を読んで思い出したのは、松竹の助監督のままに亡くなった友人の佐光曠から聞いた話。『鐘の鳴る丘』(1948)を撮ったことでも有名な佐々木啓祐監督は、シネスコ時代になってから、画面のフレームを決めるのに煙草のピースの箱を使っていた。外箱の底から覗くと、ちょうどシネスコ画面の比率になるそうだ。で、ある日のロケで、いつものようにピースの箱を覗きながら「ああでもない、こうでもない」とやっているうちに、忽然として現場から姿を消してしまった。夢中になっているうちに、監督がなんと背後の川に転落しちゃったという実話だが、百戦錬磨のプロにだって、そういうことは起きるのである。菫を踏むなどは、まだ序の口だろう。作者にはまた「青草をなるべく踏まぬように踏む」の佳句があって、つらつら思うに、とてもカメラマンには向いていない性格の人のようである。『ゆく船』(2000)所収。(清水哲男)


March 2032002

 かたまつて薄き光の菫かな

                           渡辺水巴

語は「菫(すみれ)」で春。「千葉県鹿野山(かのうざん)での作であり、山上に句碑が立っている。水巴の代表作の一つである」(山本健吉)。鹿野山の菫は知らないが、野生の菫の花の色はほとんどが濃い紫色だ。しかも「かたまつて」咲いているのならば、なおさらに色が濃く見えてしかるべきところを「薄き光の菫」と詠んでいる。作者には、淡い紫色に見えている。しかし、濃紫とはいえ、春の陽光に照らし出された花の色だからこそ、これでよいのだと思った。実際に花の一つ一つは濃いのだけれど、晴天の山上に咲く菫のひとむらはあまりにも小さな存在であり、あまりにも可憐ではかなげだ。そんな見る者の心理を写しての視点からすれば、むしろ濃い色とは見えずに、逆に「薄き光の菫」と見えるほうが自然の勢いというものだろう。無技巧なようでいて、まことに技巧的な句だと思う。苦吟のはての句かどうかなどは関係がないけれど、私などが羨望するのは、対象に心理の光りをすっと当てたように見せられる俳句的方法そのものに対してである。たいしたことを述べているわけではないのだが、この菫はいつまでも心に残る。残るからには、これはやっぱり、たいした俳句の力によるものなのだ。すなわち、掲句もたいした作品なのである。『合本俳句歳時記』(1997・角川書店)他に所載。(清水哲男)


April 1342003

 「大和」よりヨモツヒラサカスミレサク

                           川崎展宏

書に「戦艦大和(忌日・四月七日) 一句」とある。「大和」はかつての大戦の末期に、沖縄沖の特攻作戦で沈没した世界海軍史上最大の戦艦だった。このときに、第二艦隊司令長官伊藤整一中将、大和艦長有賀幸作大佐以下乗組員2489人が艦と運命をともにした。生存者は276人。米軍側にしてみれば、赤子の手をひねるような戦闘だったと言われる。掲句は、最後の時が迫ったことを自覚した戦艦より打電された電文の形をとっている。「ヨモツヒラサカ(黄泉平坂)」は、現世と黄泉(よみ)の境界にあるとされる坂のことだ。これ以上、解説解釈の必要はないだろう。しかし、この哀切極まる美しい追悼句に、同時代感覚をもって向き合うことのできる人々は、いまこの国にどれほどおられるのだろうか。また、生き残りのひとり吉田満が一晩で一気呵成に書き上げたという『戦艦大和ノ最期』は、いまなお読み継がれているようだが、若い読者はどんな感想を抱くのだろう。とりわけて、哨戒長・臼淵大尉の次の言葉などに……。「進歩ノナイ者ハ決シテ勝タナイ。負ケテ目覚メルコトガ最上ノ道ダ。日本ハ進歩トイウコトヲ軽ンジ過ギタ。私的ナ潔癖ヤ徳義ニコダワッテ、真ノ進歩ヲ忘レテイタ。敗レテ目覚メル、ソレ以外ニドウシテ日本ガ救ワレルカ。俺達ハソノ先駆ケトナルノダ」。『義仲』(1978)所収。(清水哲男)


April 1142004

 パンジーや父の死以後の小平和

                           草間時彦

語は「パンジー」で春。「菫(すみれ)」に分類。自筆年譜の三十九歳の項に「父時光逝去。生涯、身辺から女性の香りが絶えなかった人である。没後、乱れに乱れた家庭の始末に追われる」(1959年11月)とある。いわゆる遊び人だったのだろう。借財も多かったようだ。それでも「菊の香や父の屍へささやく母」「南天や妻の涙はこぼるるまま」と、家族はみな優しかった。句は、そんな迷惑をかけられどおしの父親が逝き、ようやく静かな暮らしを得ての感懐だ。春光を浴びて庭先に咲くパンジーが、ことのほか目に沁みる。どこにでもあるような花だけれど、作者はしみじみと見つめている。心がすさんでいた日々には、こんなにも小さな花に見入ったことはなかっただろう。このときに「パンジー」と「小平和」とはつき過ぎかもしれないが、こういう句ではむしろつき過ぎのほうが効果的だろう。こねくりまわした取りあわせよりも、このほうが安堵した気持ちが素朴に滲み出てくる。つき過ぎも、一概には否定できないのである。それにしても、花の表情とは面白いものだ。我が家の近所には花好きのお宅が多く、それぞれが四季折々に色々な花を咲かせては楽しませてくれる。パンジーなどの小さな花が好きなお宅、辛夷や木蓮など木の花が好きなお宅、あるいは薔薇しか咲かせないお宅や黄色い花にこだわるお宅もあったりする。通りがかりの庭にそうした花々を見かけると、咲かせたお宅の暮らしぶりまでがなんとなく伺えるような気がして微笑ましい。間もなく、いつも通る道のお宅に、私の大好きな小手毬の花が咲く。毎年、楽しみにしている。『中年』(1965)所収。(清水哲男)


May 0652005

 十七歳跨いで行けり野の菫

                           清水径子

語は「菫(すみれ)」で春。ハイキングの途次だろうか。可憐に咲いている「野の菫」を、まことに無造作に「十七歳」が跨(また)いで行ったというのである。「十七歳」とは、微妙な年齢だ。十六歳とも違うし、十八歳とも違う。もう子供だとは言えないが、さりとて大人と言うにはまだ幼いところが残っている。そんな宙ぶらりんな年齢にとって、例外はあるにしても、野に咲く花などに立ち止まるような興味はないのが普通だろう。万事において、好奇心はもっと刺激的なものへ、もっと華麗なものへと向けられている。掲句は、十七歳のそのようなありようを、菫をぱっと跨いで行った一つの行為を描くことで、見事に象徴化してみせた作品だ。未熟で粗野な美意識と、それを補って余りある若い身体の柔軟性とが、一つに混然と溶け合っている年齢の不思議を、むしろ作者は羨望の念を覚えながら見たのだと思われる。ところで、この十七歳は男だろうか、それとも女だろうか。どちらでもよいようなものだけれど、私は直感的に女だと読んでいた。男だとすると、情景が平凡で散文的に過ぎると感じたからだ。女だとしたほうが、跨ぐ行為にハッとさせられるし、しなやかな肢体を思わせられるので、情景にちょっぴり艶が出る。それから、もしかするとこの「十七歳」はかつての作者自身だったのかもしれないと、思いが膨らんだのでもあった。『清水径子全句集』(2005)。(清水哲男)


February 1822006

 菫程な小さき人に生れたし

                           夏目漱石

語は「菫(すみれ)」で春。大の男にしては、なんとまあ可憐な願望であることよ。そう読んでおいても一向に構わないのだけれど、私はもう少し深読みしておきたい。というのも、この句と前後して書かれていた小説が『草枕』だったからである。例の有名な書き出しを持つ作品だ。「山路を登りながら、こう考えた。/智に働けば角が立つ。情に棹(さお)させば流される。意地を通せば窮屈(きゅうくつ)だ。とかくに人の世は住みにくい」。この後につづく何行かを私なりに理解すれば、作者は人間というものは素晴らしいが、その人間が作る「世」、すなわち人間社会はわずらわしく鬱陶しいと言っている。だから、人間は止めたくないのだが、社会のしがらみには関わりたくない。そんな夢のような条件を満たすためには、掲句のような「小さき人」に生まれることくらいしかないだろうというわけだ。では、夢がかなって「菫程な」人に生まれたとすると、その人は何をするのだろうか。その答えが、小品『文鳥』にちらっと出てくる。鈴木三重吉に言われるままに文鳥を飼う話で、餌をついばむ場面にこうある。「咽喉の所で微(かすか)な音がする。また嘴を粟の真中に落す。また微な音がする。その音が面白い。静かに聴いていると、丸くて細やかで、しかも非常に速(すみや)かである。菫ほどな小さい人が、黄金の槌(つち)で瑪瑙(めのう)の碁石でもつづけ様に敲(たた)いているような気がする」。すなわち、人として生まれ、しかし人々の作る仕組みには入らず、ただ自分の好きな美的な行為に熱中していればよい。そんなふうな人が、漱石の理想とした「菫程な小さき人」であったのだろう。すると「菫」から連想される可憐さは容姿にではなくて、むしろこの人の行為に関わるとイメージすべきなのかもしれない。『漱石俳句集』(岩波文庫)所収。(清水哲男)


March 1532007

 あたらしき鹿のあしあと花すみれ

                           石田郷子

らがなの表記と軽やかなア音の韻律がきれいだ。春の鹿と言えば、その語感から柔らかでふくよかな姿を思い浮かべるが、「美しい秋の鹿とくらべてきたなく哀れなものが春の鹿である」(平井照敏『新歳時記』)と歳時記の記述にある。実際のところ、厳しい冬を乗り越えたばかりのこの時期の鹿はやつれ、脱毛したみじめな姿をしているようだ。調べてみて自分の思い込みと現実のずれに少しとまどいを感じた。鹿といえば観光地や動物園にいる人馴れした姿しか思い浮かばないが、掲句の鹿は容易に人前に姿を見せない野性の鹿だろう。「あたらしき」という形容に、朝まだ早き時間、人の立ち入らぬ山奥を風のように駆け抜けて行った生き物の気配と、土に残るリズミカルな足跡を追う作者の弾む心が感じられる。そこからイメージされる鹿の姿は見えないだけにしなやかで神秘的な輪郭を持って立ち上がってくる。山に自生するすみれは長い間庭を彩るパンジーと違って、注意していないと見過ごしてしまうぐらい小さくて控えめな花。視線を落として「あしあと」を追った先で出会った「花すみれ」は鹿の蹄のあとから咲き出たごとく、くっきりと作者の目に映えたのだろう。シンプルな言葉で描き出された景から可憐な抒情が感じられる句である。『現代俳句一〇〇人二〇句』(2001)所載。(三宅やよい)


February 0322008

 糸電話ほどの小さな春を待つ

                           佐藤鬼房

のひらで囲いたくなるような句です。どこか、夏目漱石の「菫程な小さき人に生れたし」(増俳1997.04.05参照)という句を思い出させます。どちらも「小さい」という、か弱くも守りたくなるような形容詞に、「ほど」という語をつけています。この「ほど」が、その本来の意味を越えて、「小さい」ことをやさしく強調する役目をしています。さて、今年の冬はいつにもまして寒く感じましたが、早いもので明日は立春になります。ということで本日は節分。この日にはわたしはたいてい鬼の役割をしてきましたが、子供が大きくなってからはそれもなくなりました。「節」といい「分」といい、昔の人はよほど寒さに区切りをつけたかったものと思われます。掲句、「糸電話」を「小さい」ことの喩えに使うことに、異議をとなえる人もいるかもしれません。しかし、感覚としてわからないでもありません。糸のほそさ、たよりなさ、そこに発せられる声の小ささ、あるいは会話のなかみのけなげさ、そのようなものがない交ぜになって、こういった発想がでてきたのでしょう。「春を待つ」人が、冷たい手で糸電話を持つ。その糸の先は、おそらくもう春なのです。『角川俳句大歳時記 冬』(2006・角川書店)所載。(松下育男)


April 1542008

 戸袋に啼いて巣立の近きらし

                           まついひろこ

会の生活を続けていると、雨戸や戸袋という言葉さえ遠い昔のものに思える。幼い頃暮らしていた家では、南側の座敷を通して六枚のがたつく木製の雨戸を朝な夕なに開け閉てしていた。雨戸当番は子供にできる家庭の手伝いのひとつだったが、戸袋から一枚ずつ引き出す作業はともかく、収納するにはいささかのコツが必要だった。いい加減な調子で最初の何枚かが斜めに入ってしまうと、最後の一枚がどうしてもぴたりとうまく収まらず、また一枚ずつ引き出しては入れ直した泣きそうな気分が今でもよみがえる。一方、掲句の啼き声は思い切り健やかなものだ。毎日使用しない部屋の戸袋に隙を見て巣をかけられてしまったのだろう。普段使わないとはいえ、雛が無事巣立つまで、決して雨戸を開けることができないというのは、どれほど厄介なことか。しかし、やがて親鳥が頻繁に戸袋を出入りし始めると、どうやら卵は無事孵ったらしいことがわかり、そのうち元気な雛の声も聞こえてくる。雨戸に閉ざされた薄暗い一室は、雛たちのにぎやかな声によってほのぼのと明るい光が差し込んでいるようだ。年代順に並ぶ句集のなかで掲句は平成12年作、そして平成15年には〈戸袋の雛に朝寝を奪はれし〉が見られ、鳥は作者の住居を毎年のように選んでは、巣立っていることがわかる。鳥仲間のネットワークでは「おすすめ子育てスポット」として、毎年上位ランキングされているに違いない。〈ふるさとは菫の中に置いて来し〉〈歩かねばたちまち雪の餌食なる〉『谷日和』(2008)所収。(土肥あき子)


August 0582008

 白服の胸を開いて干されけり

                           対馬康子

い空白い雲、一列に並んだ洗濯物。この幸せを象徴するような映像が、掲句ではまるで胸を切り裂かれたような衝撃を与えるのは、単に文字が作り出す印象ではなく、そこに真夏の尋常ではない光線が存在するからだろう。白いシャツの上に自ら作りだす黒々とした影さえも、灼熱の太陽のもとでは驚くほど意外なものに映る。この強烈なエネルギーのなかで、なにもかも降参したように、あるものは胸を開き、あるものは逆さ吊りにされて、からからと乾いていくのである。しかし、お日さまをよく吸って、すっかり乾いた洗濯物の匂いは格別なもの。最近発売されている柔軟剤に「お日さまの香り」というのを見つけた。早速試してみたらどことなくメロンに近いものを感じるが、お日さまといえばたしかにお日さま。それにしても太陽の香りまで合成されるようになっている現代に、ただただ目を丸くしている。〈異国の血少し入っている菫〉〈初雪は生まれなかった子のにおい〉〈死と生と月のろうそくもてつなぐ〉『天之』(2007)所収。(土肥あき子)


March 2732010

 すみれ踏みしなやかに行く牛の足

                           秋元不死男

みれに可憐なイメージがあるのは、ちょっとうつむき加減の咲き具合と、その名前の音のせいだと思っていたら、由来は「墨入れ」と聞いて、へえそうなのかと。ともかく生命力が強いことは間違いなく、我が家の門の前に始まって、駅までの歩道の割れ目にいくつも咲いている。「日本は世界有数のスミレ大国」と、この句の載っている『季寄せ 草木花』(1981・朝日新聞社)にある。スミレ大国とはのどかな響き、この句のように、れんげも咲きすみれも咲きいろいろ混ざり合った草の匂いがする春田が思われる。牛の歩みはゆっくりと、春泥を沈めながら続いており、踏まれてもまたそこに咲くであろうすみれも、しなやかである。(今井肖子)


March 3132011

 白すみれ關西へゆくやさしさよ

                           新妻 博

こ10年東京に住んでいるが話すときある種の緊張感がつきまとう。関西に戻り家族や友人と会話して初めて身体の底にある土地の言葉が自由に躍動する感じがする。新幹線を降りて在来線に乗り換え、関西弁のざわめきに包まれるとほっとする。「そやねえ」「ほんまに」と語尾の柔らかさに故郷の心地よさを感じる。関西生れの私にとっては「関西へゆくやさしさ」はそのような体験と重なるが作者にとって「やさしさ」を感じるのはどんな時なのだろう。可憐な「白すみれ」を配合に持ってきているぐらいだから彼の地にはんなりと明るいイメージを抱いているのだろうか。では関西を関東に置き換えるならどうなるだろう。そしてそれにふさわしい花は?句を眺めながらしばし考えている『立棺都市』(1995)所収。(三宅やよい)


April 0742011

 蝶とべり飛べよとおもふ掌の菫

                           三橋鷹女

れまで短歌に親しんでいた鷹女の処女作。戯れに摘み取った手の中の菫がやがてはしおれてしまうことに哀れさを感じたのか、ひらひらと舞う蝶のように飛んでおくれ、と願う気持ちが初々しい。「おもふ」と、自分の気持ちを直截的に盛り込む強さが最期まで自分の感情を大切にした作者らしい。鷹女は昭和四十七年四月七日に亡くなった。その日は満開の桜のころであったが「花冷えなどというにはあまりに底冷えのする寒さであった」と中村苑子が書いている。鷹女最期の句は「寒満月こぶしをひらく赤ん坊」だった。消えてゆく命が、月の光に誘われて握りしめたこぶしを徐々にひらく赤ん坊の生命力に呼応したのだろうか。摘み取った掌の菫から、ひらかれゆく赤子のこぶしまで、四十五年の歳月を俳句に打ち込んだ鷹女だった。(三宅やよい)


May 0452011

 若葉して手のひらほどの山の寺

                           夏目漱石

わやかな若葉の頃の山路を歩いているのだろうか。見渡すかぎり若葉に包まれた山腹に、おそらく小さな寺が見え隠れしているのだろう。遠方であるがゆえに、寺が「手のひらほどに」小さく見えるというわけではあるまい。寺そのものが小さいのだ。あふれる若葉に押しつぶされそうになりながらも、そこに小さな存在を主張している、忘れられたような山寺。そうした眺めを前に足を休め、山路をやってきた人はホッとして呼吸を整えているのかもしれない。小さな山寺のありようよりも、それを眺めている人のありようのほうを、むしろ映し出してくれるような句である。そのあたりに漱石の心憎い手腕が感じられる。単に小さいというのではなく、「手のひらほどの」という形容によって、小さくて、どこかしら可愛らしい風情の山寺が見えてくる。周囲には、寺を手のひらに包むようにして萌えあがる若葉。「菫ほどの小さき人に生れたし」「橋杭に小さき渦や春の川」――漱石は俳句で小さいものに惹かれていたようで、何句も詠んでいる。文庫版解説のなかで坪内稔典はこう書いている。「俳句は本来的に簡便で小である。その簡便で小さなものの価値、それの楽しみなどを、漱石の俳句は実に多彩に示している」。岩波文庫『漱石俳句集』(1967)所収。(八木忠栄)




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