1997ソスN3ソスソス31ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

March 3131997

 聲なくて花のこずえの高わらひ

                           野々口立圃

の句は桜を詠んだものであろうが、むしろ泰山木や朴木が高い枝に大きな花を咲かせている姿を見ると、この詩がぴったりする。樹木は、花を人間のためなどではなく、はるか天上を向いて咲かせている。世界は人間が中心ではないという樹木の主張を感じる。根が地下に張り、枝が天空に伸びるために、樹木を地と天をつなぐ宇宙軸とみなす考えが古くからあるが、無限に拡がる大空を背景に、色とりどりの花を咲かせることを許された樹木の存在は、人間にとって憧れでさえある。(板津森秋)

[編者註]野々口立圃(ののぐち・りゅうほ)は、十七世紀の京の商人。貞徳門。他に「天も花に酔へるか雲の乱れ足」など。


March 3031997

 木のもとに汁も鱠も櫻かな

                           松尾芭蕉

は「なます」。木は「こ」と読ませる。昔から、桜に対するとどうも臍曲りになる表現者が多い。「世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし」(在原業平)だとか、「わがこころはつめたくして/花びらの散りておつるにも涙こぼるるのみ」(萩原朔太郎)だとかと、枚挙にいとまがない。なにせはかない命の桜花だもの、そう表現したい気持ちはよくわかりマス。しかし他方では、せっかく咲いた桜なのだから「酒の肴」にしちまおうなんていう逞しい感覚の庶民もたくさんいたわけで(いまでも)、だとすれば、もっと楽しい作品があってもいいのになと思う。その意味で、この軽みはとてもよい。花見の座。そこに坐って一杯やったら、これっきゃないですよね。時は元禄三年(1690)、芭蕉四十七歳。晩年の句だ。(清水哲男)


March 2931997

 借り傘に花の雨いま街の雨

                           北野平八

先で、雨に降られてしまった。「こんな傘でもよかったら」と差し出された傘を借りて帰る。他人の傘とは不思議なもので、なかなか手になじまない。女物だったりすると、なおさらである。それが桜並木を通りかかり、雨に煙る花の美しさに心を奪われているうちに、いつしか気にならなくなっていて、気がつけばもうあたりは見慣れた街の中だ。こんな雨なら、雨もいいものだ。と、自然に小さな充足感がわいてくる。平八ならではの繊細な感覚。そして、なによりも字面の綺麗さにうっとりとさせられる。『北野平八句集』所収。(清水哲男)




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