1997年3月23日の句(前日までの二句を含む)

March 2331997

 菜の花や月は東に日は西に

                           与謝蕪村

から二百年以上も前の俳句の一つがいつ詠まれたか日付までよくわかっているものだと半信半疑であるが、これが本当なら「菜の花や…」は蕪村四十八歳の作だ。天文学的考証をすれば、旧暦の十四日か十五日の情景を詠んでいることになる。それはともかく、蕪村は画家だけあって、この句も非常に絵画的である。放浪生活ののち俳句にのめりこみ、「芭蕉に復(かえ)れ」の主張の下、俳諧復興の指導者となった。絵も俳句もやり始めるととことん極める人で、才能だけに甘えず勉強を怠らなかった。その結果が非常に単純明快な言葉に落ち着いているのがニクイ。単純明快はたやすいようで、むずかしいのだ。わが故郷、神戸の須磨浦海岸へ行くと、蕪村のこれまた有名な句「春の海ひねもすのたりのたりかな」の碑が建っている。春の瀬戸内海はまさに、この句を絵にかいたようなものだった。(松本哉)

*この有名な句は、安永三年(1774)の今日(旧暦・2月15日)詠まれたと伝えられている。(編者註)


March 2231997

 春の夢みてゐて瞼ぬれにけり

                           三橋鷹女

んな夢だったのだろう。夢の心理学は苦手だが、この句に近い心持ちで目覚めたことはある。現実と同じように、夢の世界も決して自由ではない。ただ、夢の中の時空間の混乱に乗じて、ひとつの感情を現実よりも深めることはできる。センチメンタリズムの深みに、身を投げてしまうこともある。そうすると、おのずから瞼は濡れてくる。もちろん、哀しいからなのだけれど、春の浅い眠りの夢には、その哀しみにどこか甘美さが伴う。明日の朝は、そんな甘美さの残る感情とともに目覚めてみたい。(清水哲男)


March 2131997

 春愁や一升びんの肩やさし

                           原子公平

とえば、今日が、かつて好きだった人の誕生日だったとする。なぜか、別れた人の記念日は忘れないものだ。遠くにある人だからこその、近さだろう。関連して、昔のあれやこれやを思い出す。そのことに、しばし没頭してしまうことがある。酒が入れば、なおさらだ。普段は格別気にも留めない一升びんを、それこそなぜかしみじみと眺め入る気分にもなる。やさしい肩だなァ……。そんなふうに感じることのできる自分自身を、実は作者は哀しくも愛している。すなわち、これが春愁の正体である。『海は恋人』所収。(清水哲男)




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