1997年3月13日の句(前日までの二句を含む)

March 1331997

 芹レタスセロリパセリよ血を淨めよ

                           山本左門

然から遠ざかるほど、人は病気に近づく。京都浄瑠璃寺の住職がラジオで話していた。作者の焦燥感も、そこに根拠を持っている。歴史上、自然が昨今ほどに人間の問題となったことはないのである。その意味で、まことに現代的な俳句だ。この句は、小川双々子が主宰する「地表」(一宮市)で、今年度の地表賞を受賞した作品のひとつ。双々子は、左門句が現在の俳壇に蔓延する季語季題趣味と無縁であることを評価し、さらに言う。「季語は業のようなものだから、その純正なはたらき(詩としてのはたらき)を駆使するなど容易ではない。大方は<俳>などというはたらきを計るから、自らの居場所さえ解らなくなる為態となる」。(清水哲男)


March 1231997

 食堂車花菜明りにメニュー読む

                           杉原竹女

菜は「菜の花」の別称。食堂車のテーブルに菜の花が活けてあり、あたかも花の明かりでメニューを読むような、楽しい気分。窓外の風景にも、時々菜の花畑が現れては消えていく。新幹線のビュッフェなどでは味わえない心持ちである。昨今の鉄道は能率一本やりで、情緒がなくてつまらない。昔の食堂車の料理は、美味とは言えず高価でもあったが、旅の楽しさを演出してくれていた。汽車の旅の楽しさをいま求めるとなると、さしずめヨーロッパの鉄道あたりだろうが、テレビで見るかぎりは演出過剰気味のように思える。手元不如意のときに、あちらでは駅弁を売ってないのも困る。(清水哲男)


March 1131997

 春風や闘志いだきて丘に立つ

                           高浜虚子

正二年、虚子が俳壇復帰に際して詠んだ有名な句。そんなこととは知らずに、十代の頃この句を読んで、中学生の作品かと思った。あまりにも初々しいし、屈折感ゼロだからだ。俳句の鑑賞では、よくこういうことが起きる。句の作られた背景を知らないために起きるのだが、しかし、その誤解の罪は作者が負うべきなのであって、読者のせいではない。テキストが全てだ。……という具合に基本的には考えているのだが、俳句であまりそれを言うと何か杓子定規的で面白くないことも事実だ。そのあたりの曖昧なところが、俳句世界の特質かもしれない。喜寿の虚子に、上掲の句を受けた作品もある。「闘志尚存して春の風を見る」。よほど若き日の闘志の句が気に入っていたと見える。(清水哲男)




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